第2話 300秒後に変わる俺と会長の呼び名

「さすが。話が分かるわね、副会長」

「話が分かるというよりも考えることを放棄したといったほうが正しいのかもしれませんが……」


 悪だくみでもするかのような笑みを見せる会長に、俺は思った通りのことを言う。


 話を詳細に話せるような雰囲気でもないのが一番の原因だが、そこを追っても仕方がない。ただでさえ破綻しかけている生徒会がさらに破綻するだけであろう。


「まぁ細かいことはいいのよ。ところで、私は平気なのだけれど和馬くんは夕飯大丈夫かしら?」

「え、はい。バイト行く前に食べましたから」


 普段俺のことを『一谷くん』と呼ぶのにも関わらず、急に『和馬くん』と呼んだのが気にかかったものの、答える。


 すると氷雨先輩はふざけた予算案を持ってこられたときのような目をして問うた。


「何を?」

「こ、コンビニのおにぎり、です」


 もう既にだらだらと変な汗が出ていた。

 だが、氷雨先輩が向ける、冷たい目を受けそれがさらに悪化する。特段暑いわけでもないのに滝のような汗が出始めていた。これが冷や汗だろうか。


「副会長ともあろう者が健康に気を遣わないだなんて……せめてサラダはつけなさいよ……」


 別に俺とて健康に気を遣っていないわけではないのだが。


 確かに、自炊するのも面倒だし、親も海外赴任して俺に一人暮らしを強いた負い目か多めに金をもらっているのでコンビニだけで夕食を済ませることが多いけれども。


 そんな俺の言い訳じみた思考が伝わったのだろうか、先輩はピッと親指を立てて。


「私が来たからには、毎食バランス完璧な食事を食べてもらうからね。忙しくても野菜は食べてもらうわよ」

「えっと、ありがとうございます?」


 300円と釣り合うのは謎だったが、そもそも多めに貰っていて、俺もバイトしているからといって生活費への不安はあったがひとまず感謝を告げる。


 それでも先輩は満足したらしくて、ふふんと自慢げに鼻を鳴らした。

 普段からは想像できないほどのかわいらしさだ。せっかくだから、呼び名についてこの機会に聞いておこう。


「ところで、どうして俺のことを『和馬くん』と呼んだのですか?」

「もしかして、嫌だったかしら?」

「断じてそういうことではないのですが」


 しかし、受け取る方向が違ったのか。

 しゅんとする先輩に、俺は慌てて弁明の言葉を紡ぐ。しょぼくれた先輩はいつまでも眺めていたくなるような、小動物じみた可愛さがあったのだが居心地は悪い。


「なぁんだ、ちょっと焦ったじゃない」


 俺も悪いのかもしれないが、全部俺の責任にする言動に少し怒りも湧きそうになったが、心から安心している様子を見てそれをぶつけられるほどクズではない。


 そんなことよりも答えを、と視線を向ける。

 それを察したのか、先輩は語りだした。


「とはいえ、そこまで特殊な理由はないわよ。これから一緒に住むのだから、苗字に君付けで呼ぶなんて他人行儀なことをする必要はないかなって思っただけ」

「そう言われればそうなのかもしれませんね」


 強引に決行された300日宿泊ということに目を瞑れば充分に納得できる理由だ。

 いや、もう300日宿泊は始まっているのだ。理由はどうであれ、必要以上に他人行儀な振る舞いをする必要はないのでは。


 口角が若干上がっている先輩を見ながら、本当にこの理由でいいのかと思考を巡らせる。


 が、いつまで経っても結論が出ることはなかった。美人な先輩に見つめられているのだから仕方がないだろう。

 なので、俺は先輩の理由を正しいと思うことにした。


「ま、まぁ。そういうことなら一理ありますね」

「そうよね。だから、どう? 和馬くんも、私のことを『会長』なんて呼ばないでさ。例えば——『真雪ちゃん』なんていうのはダメかしら?」

「いきなり距離詰めますね!」


 物理的な距離は、テーブルを挟んで対面に座っていることもあり生徒会室でいるときとさほど変わらないのだが精神的には雲泥の差がある。


 そもそも全校生徒で会長のことを『真雪ちゃん』なんて呼んだ人はいるのだろうか。


 勝手な答えだが、おそらくいないだろう。よくて『氷雨さん』、普通で『会長』、悪くて『氷姫』なのだから。『氷姫』という呼び名は別に侮蔑しているわけではなく畏れられすぎているだけなので悪くもないのだが、距離感順で並べたらこうなるはずだ。


 だからこそ、俺は戸惑っていた。


 生徒との距離感がバグっている教師ですら氷雨先輩だけは『氷雨さん』または『会長』なのだ。


 言おうとすると、謎の恐怖感が襲ってきて結局声に出せない。氷雨先輩の名前はそんな扱いすら受けていた。


「で、でも」


 長々と思考を繰り広げていると、氷雨先輩がおずおずといった様子で声を出す。

 不安にさせてしまったか、と思いながら俺は彼女の声に耳を傾けた。


「別に『真雪ちゃん』じゃなくても。ほら、一緒に住むのに会長呼びなんて、ちょっと淡白すぎるかなって思っただけだから」


 気まずそうに、不安の色を滲ませながら指を弄る先輩に、俺は言葉を放つ。


「いえ、ちょっと戸惑っただけですから。……そうですね、まずは『氷雨先輩』でどうですか?」


 真雪ちゃん、とは程遠いかもしれないが現段階での妥協案を示した。

 飛びすぎると逆にギクシャクするのではないか、という思いがあってのことだが。


「うん、まぁ、それでいいわ。よく考えれば私、氷雨先輩って呼ばれたことないかも……。中等部二年からずっと会長だったし」


 それを知ってか知らずか、ニマニマしだす氷雨先輩に尊敬の念を抱いた。

 よく考えなくとも、中等部二年から今、高等部二年までずっと会長をしているというのは常人にできる芸当ではない。


 ずっと『氷姫』として畏れられることの意味が、ほんのちょっとだけ俺にもわかったような気がした。


「じゃあ、早速呼んでちょうだい?」


 そんなことを考えていると、喜色満面の先輩が俺にかわいくおねだりしてくる。

 俺はもっと先輩に笑ってもらいたい、との思いで口に出す。


「……氷雨先輩」

「もう、和馬くんったらかわいいわね!」


 恥ずかしがったせいだろうか、かわいさを見出されてしまいぐしぐしと、しかし愛情が感じられる撫でかたで氷雨先輩は俺の頭に手をやる。


 いつか、俺以外の誰かが氷雨先輩、と呼んでくれればいいなと思いながらも、俺はこの感覚に身をゆだねることにした。

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