コーヒーシロップ

街宮聖羅

カフェテリア

 甘い匂いが鼻へ押し寄せ、僕の体を崩壊させていく。崩壊が止まらず、一つ一つの細胞が天に帰っていくような感覚。やがて身軽な魂だけとなった僕を待ち受けていたのは一面を覆いつくす花畑とその中心にポツンと置かれた白壁の灯台。誰を導くために置いているのかはわからないけれど、灯台は一生懸命に遠方を照らし続けている。そんな光景を僕は夢の中で見たのだ。目が覚めた後もその豊かな光景が鮮明に思い浮かぶ。


 「お待たせしました。 アイスコーヒーと特製パンケーキです。」


 突如として僕の嗅覚に攻めてきたのは目の前に置かれたパンケーキだった。メープルシロップと蜂蜜を融合して作られた特製シロップの甘さと甘さによる強烈なパンチ。あまりにも甘すぎる香りに、僕は甘党店主の底力を見せつけられたようだった。湯気の立ちこめる表面をずっと見ていたいというこの気持ちをもう一人の僕が容赦なく踏みにじっていく。

 差し出された銀ナイフをトロトロシロップと溶けかけのバターの海から徐々に沈めていく。パンケーキが倒れないようにフォークで支えながら慎重に皿へとナイフを近づけていく。ふわふわパンケーキにはナイフの切れ味など気にしないでいいらしい。ナイフは役目を終えて元の位置へと帰っていく。支えていたフォークはパンケーキ本体をいきなり攻撃を開始する。たった一撃の攻撃により、切断されたパンケーキは貫通されてそのまま浮遊していく。行き先はもちろん僕の口内。パンケーキは大量のシロップに包まれながらも湯気を絶やさない。まだ温かいという証拠だ。僕と彼女の距離が近づき、ほのかなキスを終えて僕へと侵入してきた。

 その甘美に埋もれ、温かさに抱擁される僕。上歯と下歯が接触する前に、ほおばったはずの彼女がいつの間にか消えていた。口の中でとろける、という経験をしたのは初めてかもしれない。口内の温度が急上昇し、冷たいものを欲した。


 「すいません。 アイスコ―ヒーにシロップを一ついただけますか。」


 「はい。 少々お待ちください。」


 僕は大の甘党だが既に甘々。いつもなら二つ頼むところを今日は一つだけ。友人が聞いたら目玉が飛び出しトルネードするかもしれない。


 「お待たせしました。 コーヒーシロップです。」


 手渡されたコーヒーシロップは帽子を取られるとすぐに体内の極上の液体を違う液体へと流し込まれてしまう。空っぽの彼は無造作にお盆の上を転がった。垂れた一滴が涙の一粒のように見えた。僕は急ぎすぎたなと思い、彼に謝罪をした。もっと丁寧に接してあげれば、彼も涙を流さずに済んだのかもしれない。

 

 謝罪してから一呼吸置き、僕はアイスコーヒーの入ったグラスのふちを口元へ運んだ。唇に触れた瞬間の冷たさはまさに南極。赤道の熱帯国から一瞬で南極に瞬間移動させられたような気分を味わった。徐々に流れ込む黒茶色な液体。苦さは彼による尽力で最小限に抑えられた。しかし、口の中が甘々だったにも関わらず大量に押し寄せてきた苦さはやはり只者ではなかった。見た目からして強く、何にも染まらないとは思っていたがまさかここまでだったとは。甘さに打ち勝った渋い苦さに敬意を表し、尽力してくれた彼に哀悼の意を表した。


 「ありがとう。 君のおかげで僕はこいつを味わって飲める。」


 心の中でそう呟き、元の動作に戻った。湯気の勢いは落ち着いているがほのかな温かさを残している。僕はもう一度、口へとほおばろうとした………その時だった。入口のクラシックなベルがカランカランと店内に鳴り響き、外気の熱風が店内に注ぎ込まれた。熱風とともに現れたのは一人のゆるふわヘアーの女性だった。そして、その女性を僕は良く知っていた。甘いひと時を一緒に味わいたいと心の底から思えた人だったからだ。食事の手を止めて、挨拶を交わそうとしたのだが。


 「お客様は何名様ですか?」


 彼女に尋ねた女性店員は物腰低く接した。彼女の口元が動いているのが見えたが、それはまるでアフレコ前の映画のようだった。

 僕は当然一人だと思っていたが、店員の一指し指と中指が上がっていることに気づいた。すると、その直後に長身の男性がベルの音と共に入店してきた。彼は辺りを少し見回すとすぐに彼女の元へと駆け寄っていき同時に案内されていった。女店員の誘導のもと、僕とは反対方向の席へと案内される二人。その姿がどんどん小さくなっていき、口元の動きすら見えなくなった。

 去り際に微かに見えた男の指にはまだ輝きかしいシルバーのリングが嵌められていた。おそらく、彼女も嵌めているのだろう。その姿を見送るように僕は視線を動かしていく。見えなくなるとすぐに、僕は視線を目の前のパンケーキに落とした。けれど、真っ先に目が行ったのは空っぽのコーヒーシロップだった。役目を終え、放置された彼だ。その瞬間からの甘すぎたパンケーキの味や少しの苦みを帯びたアイスコーヒーの味を僕は覚えていない。ただ覚えているのは彼の姿だけだった。

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コーヒーシロップ 街宮聖羅 @Speed-zero26

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