第10話 緊張とラベンダーティー ★

 


 紅茶を一口飲めば、適度な渋みと共に独特な甘い香りが喉を通過した。

 セシリアはその香りに、つい先程まで膨らんでいた頬を思わずふわりと和らげる。


「ラベンダー、かしら」


 本来、このお茶にラベンダーの要素は無い筈だ。

 という事は、おそらくこれはゼルゼンの気遣いなのだろう。

 ラベンダーにはリラックス効果があるから、と。


 表情が和らいだセシリアに、ゼルゼンも少し安心したように微笑む。


「正解。入れたエキスはグリムが花壇で咲いた花から抽出したらしい。『象が乗っても壊れないくらい丈夫な心臓でも、流石にちょっとくらいは緊張するだろうからね』って、アイツが言ってたぞ」


 花から香りのエキスを抽出する方法は、以前その手の知識を仕入れた際に、セシリア自身が『実験』と称して実際にやってみた事がある。

 その時に花壇の花の提供ついでに、オルトガン伯爵家庭師見習いの少年・グリムを巻き込んだのだ。


 おそらく彼はセシリアとのその『実験』の際に、手順を覚えていたのだろう。



 彼とセシリアの間には浅からぬ縁がある。


 セシリアが4歳の時に開いた『おしごとツアー』で出逢ったのが、彼との初対面である。

 最初こそあまり印象が良くなかったがその後はすっかり仲良くなり、彼が使用人として屋敷で働きだした後も庭園に遊びに行った際にはちょくちょく話をしたりしていた。


 ゼルゼンにとっても同い年の幼馴染の為、グリムは両者共通の友人だ。


(なるほど、どうりで落ち着く香りね)


 友人二人分の想いが詰まった香りだ。

 これで効かないなんて、嘘である。

 それに。


(この良い香りは丁寧な作業の証なのに、添えられた言葉はちょっと失礼な辺りがホント、グリムらしい)


 少なくとも使用人が主人に言うセリフでは無いけれど、彼らしい激励だと思う。

 フッと口元に笑みを浮かべながら、再びティーカップを口へと運ぶ。



 しかしここでセシリアは、ふと『ある事』に気が付いた。


「ねぇ、ゼルゼンはこれを飲まなくても大丈夫?」


 振り返りながらそう尋ねると、ゼルゼンの怪訝顔とかち合った。


「何故私が飲む必要が……?」


 意味が分からないと言いたげなその声に、「だって」とセシリアが言葉を続ける。


「ゼルゼンは今日、私の追従で王城に行くでしょう? なら私にとって今日が社交界デビューなのと同じように、ゼルゼンにとっても今日が正式な執事デビューっていう事になるんじゃない?」


 そう言われて、ゼルゼンは思わずハッとした。



 ゼルゼンにとって、確かに今日は『公の場で執事として振る舞う初めての日』である。

 しかし自分の役割の事に頭が一杯で、自分の事にまで頭が回っていなかった。


 あくまでも裏方である自分の仕事はいつもと変わらない。

 ただ単に仕事をする場所が違うだけだ。


 そう自分に言い聞かせて、セシリアのデビューの付き人をするプレッシャーを散らしていたというのに。


(頭が回らないままの方が、絶対に良かった)


 これじゃぁ絶対に緊張してしまう。


「……何故わざわざ私を緊張させるような事を言うんですか。私が執事として機能不全になれば、困るのはセシリア様の方ですよ?」


「この直前に、お前はなんて事を言うんだ!」と叫んでやりたい気持ちを抑えてそう言えば、セシリアは「あっ」という顔をした。


 なるほど。

 どうやら彼女にも、こちらに更なるプレッシャーをかけるつもりは無かったらしい。


「わ、私はただ、ゼルゼンにはこれから何時間も人前で頑張ってもらわないといけないし、せっかくグリムがくれたオイルなんだから私と一緒にその恩恵に与れば良いんじゃないかなって思っただけで……」


 「ごめん」と言いながら本当に申し訳なさそうにこちらを見るので、ゼルゼンとしてはもう許すしかない。

 しかし、それはそれとして。


(セシリアの事だけでも心配なのに、そこに自分の心配も重なって、俺は大丈夫なんだろうか……)


 等と、少し不安が募り始める。

 しかしその不安はポーラの次の言葉ですぐに和らいだ。


「大丈夫ですよ、貴方はマルクさんの指導を受けたのですから」


 彼女の言葉で思い出す。

 普段は絶対に言わない、マルクからの褒め言葉を。


「まぁ問題無いでしょう」


 それは、一見すると褒め言葉でも何でもない。

 ゼルゼン相手だからこそ伝わる言葉だ。


(仕事には一ミリだって妥協しないあの人がそう言ってくれたんだ)


 厳しいが、尊敬に値する人だ。

 そんな彼からの言葉だからこそ、誰のどんな褒め言葉よりも確信になる。

 俺はきっと大丈夫だ、と。



 彼の緊張が少し和らいだのを感じて、ポーラは「それに」と言葉を続ける。


「私も一緒に行くんですから大丈夫ですよ。私はクレアリンゼ様に付いて何度も王城の社交パーティーには出向いていますからね、雰囲気も段取りも実際に経験して分かっています。安心してください」

「はい、ありがとうございます」


 そう言った彼はもう、適度に肩の力が抜けている。


 適度の緊張は大切だが、あまりに強い緊張感はパフォーマンスの発揮を阻害する。

 妙な力みは無い方が良い。



 ゼルゼンの心の平穏が戻って来て、セシリアはホッと安堵の息を吐いた。

 そしてまた紅茶を口に運ぼうとした手が――緩んだ。


 カップを零す事は無かったが、緩んだ手元のせいでカップのバランスが崩れ、中の紅茶が踊る。


「っ!」


 慌ててゼルゼンがカップを支えたが、少し遅かった。

 中から躍り出た液体が数滴、水滴へと変わる。


 そして胸元から膝に掛けて、パタパタと落ちた。



 やらかした彼女からすぐさまカップを取り上げてから、ゼルゼンは焦った声で「失礼します」と一言置いた。

 そして素早く、ドレスに掛けていたタオルを捲る。


「やばい」という顔のセシリア。

 両手で口元を抑えて、思わず上がりそうになった悲鳴をどうにか引っ込めたポーラ。

 そして片膝をついてしゃがみ、目を皿のようにしてドレスに汚れが付いていないかを確認するゼルゼン。


 室内の空気がピリッと張りつめる。

 しかしそれも、ゼルゼンの安堵のため息が洗い流した。


「大丈夫です、汚れはありません」


 その声に、セシリアもポーラも安堵の息を吐く。


「はー、びっくりした」

「大事無くて本当に良かったですね」


 そんな風に話す二人に、ゼルゼンが笑顔で加わる。


「ね? セシリア様。しておくに越した事は無かったでしょう?」


 笑顔、且つ柔らかい口調で言ってはいるものの、その心情はあまり穏やかではなさそうだ。


(絶対、「ほら見ろ、やっぱりやらかしたじゃねぇか」とか思ってるよね、ゼルゼン)


 なんて思うが、全く以って反論できない。

 新しいタオルを敷き始めたゼルゼンに、もう「厳重過ぎるんじゃない?」なんて言える筈も無く、セシリアは「むぅ……」と唸りながら彼の世話を甘んじて受ける。


 そんな両者のやり取りに、ポーラがクスクスと笑った。



 こうして出発までの時間は過ぎていく。


 この後赴くその場所が『戦場』になる事を、セシリア達はまだ知らない。



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 当該話数の裏話を更新しました。

 https://kakuyomu.jp/works/16816410413976685751/episodes/16816410413976920468


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