第10話

そうして始まったブラバンは金曜の監査の日を迎えようとしていた。


 三人は部室でロングトーンをやりつつ、生徒会が来るのを待っていた。


 斉藤と持田はマウスピースを楽器に装着しての練習もどうにかついてくるが、いかんせん複式呼吸に慣れないせいか二人の音はどこか頼りなくか細い。不安定で、空気の中をぐねぐねとのたうちまわっているようだった。


 メトロノームの規則的な音を聞きながら、翔太は厳しいと噂の生徒会の監査を乗り切ることができるか不安だった。活動実績のまるでないブラバンは生徒会にしてみれば廃部候補の第一に名前があがっている。三人でぶーぶー楽器を鳴らしているだけで、一体これがブラバンを守る手段になるのだろうか。いや、そもそも何をすれば活動実績になるのか、まるで分からない。自分にできることは一体なんなのだろう。


 翔太が悶々としていると、部室のドアがノックと共に開かれた。


「失礼します。生徒会です」


 顔を出したのは平井だった。翔太はメトロノームを止めて立ち上がった。


「どうも」

「おっ、部員三人になったのか?」

「一応……」

「やるじゃん。邪魔するよー」


 平井は踵を擦り合わせるようにして靴を脱ぎ、中へ入ってきた。


 翔太は緊張して体を強張らせながら小声で「どうぞ」と返した。斉藤と持田も立ち上がり、翔太の横に並んだ。


 三人はクリップボードに挟んだ紙面をめくる平井を固唾を飲んで見守っていた。生徒会長が改革の陣頭指揮をとっているやり手であるのは分かっているが、監査を行っている平井も同じぐらい油断がならない。気のいい笑顔で、優しそうではあるが、こいつも生徒会の手先であることには変わりはないのだから。油断は禁物だ。ここが倉庫代わりに使われていたこと、運動部から使用料をとっていたことなどは絶対にバレてはいけない。


「田口は来てないの?」

 翔太はぎくりとした。


「来てません」

「ふーん。じゃあ、まず、確認からいくな。ブラスバンド部、部長は……電気科二年の田口で変更ないな?」

「はい」

「で、今年は新入部員三人と……」

「まだ増えるかもしれませんけど」

「ふーん?」

「これ、備品の数書いておきました」


 翔太は事前に渡されていた用紙を平井に差し出した。平井はそれを受け取ると「おお、お前ら真面目だな」と満足そうに頷いた。


「もー、どこの部もみんな適当に書いてるから去年の調査と照らし合わせんの大変なんだよ」

「はあ」

「みんなお前らみたいに素直にやってくれたらこっちの仕事も楽なんだけど」


 平井はボールペン片手に備品とその数量を照らし合わせて行く。トランペットが2、トロンボーンが2、ホルンが2。ほとんど壊れかけの譜面台も数を確認する。その合間に「このチューナーは記載がないけど?」と抜かりなくチェックする。


「それは大島先生の私物です」

「ふーん。このメトロノームも?」

「これはもともとここにありました」

「ふーん……。なるほど。よし、よし……」


 静かな部室の中で平井が棚の楽器ケースを見ながら書類を確認する作業を翔太は息を詰めて見守っていた。


 不正なことは一切していない。ここにある備品は丹年に調べて嘘偽りなく用紙に記入し、修理やメンテナンスの必要のあるものについても備考として書いておいた。部室の掃除はきれい好きの持田のおかげでかなり行き届いているし、何の咎めを受けることもない。と、思う。少なくとも自分が知る限りでは。


 翔太が何をこんなにも恐れているのかというと、それは、まだ見ぬ田口さんの存在だった。田口さんが部室を倉庫として貸していた以外にも、何かとんでもない事実がほじくり出されてきたらと思うともう気が気ではなかった。せめて田口さんというのがどういう人物か分かっていれば少しは安心できるものを、現時点では不審感しか、ない。


「今日は会長は来ないんですか?」


 斉藤が沈黙に耐えられなくなったのか、わざと明るく尋ねた。


「来るよ。今、他の部の立会に行ってるから、もう来るだろ」


 持田が斉藤の脇腹を「余計なこと言うな」とでも言うように肘で突いた。


「まあ、あいつ来ても別にもうすることないけど。いやー、お前らほんと協力的で助かるわ。記載事項に問題なし……と」


 平井がクリップボードから目をあげた。翔太はほっと息をついた。いや、つこうとして、平井の言葉に逆にぐっと咽喉を詰まらせた。


「いや待て」

「な、なにか……」

「楽器の数が違うな」

「えっ?」


 斉藤と翔太は思わず顔を見合わせた。二人で一つずつ確かめて書いたのだから、間違いのあるはずはなかった。


「去年はアルトサックス1になってるけど、今年ゼロってどういうこと?」


 和やかに微笑んでいた平井の目がみるみるうちに険しくなり、笑いを含んでいた声は刑事ドラマの尋問を思わせるように低く、有無を言わせぬものになって三人にぐいと迫ってきた。


「楽器は消耗品じゃないんだからなくなるわけない。そうだろう」

「は、はあ。でも、確かにここに置いてあるものは全部確認して……」

「なくしたじゃすまないぞ」

「はあ……」


 持田が困惑しきっている翔太の背中を指でちょっと突いた。翔太が振り向くと持田は何か言いたげな目配せをしていて、しかし翔太は持田が何を告げんとしているのか分からずますます困惑して首を傾げて見せるより他なかった。


 その時だった。開け放してあったドアから生徒会長が顔を出し「平井、終ったか?」と声をかけたのは。


 万事休すとはこの事か。翔太は煤けた天井を仰いだ。


 平井は「ちょっと一個だけ、不明な点がある」と答えて言った。


「楽器の数が合わん」

「……どれどれ」


 ドアの傍に立っている会長に、平井はクリップボード片手に寄って行くと「ここ」と問題の個所を示した。


 その隙に持田が素早く翔太の耳に口を寄せた。


「アルトサックスって、田口さんのパートじゃなかったか?」


 翔太は目を大きく見開いて持田の顔を見た。持田がこくりと頷いて見せた。


「それってもしかして……」


 斉藤が声を潜めて何か言おうとしたが、翔太は鋭くそれを「言うな」と制した。


「まずいな」

 持田が呟く。

「どうする」

「どうするって……」


 こそこそやっていると、生徒会長が間に割って入ってきた。


「田口はどうした」

「……来てません」

「アルトサックスはどうした」

「……」


 翔太は黙り込んだ。持っているとしたら田口さんしかいない。でもそれをここで言っていいのか、どうなのか。田口さんを信用できていない以上、迂闊なことは言わない方がいいに決まっているけれど、それでは今の状況をどうやって脱すればいいのか思いつかない。


 翔太が額から冷や汗を噴き出させていると、おもむろに持田が一歩前へ出た。


「修理に出してます」

「なに」

「な? 修理に出してんだよな?」

 持田はそう言いながら翔太の目をじっと見た。

「えっ……」


 持田の目は「とりあえず、黙ってろ」と翔太に言っていた。

「ゼロっていうのは、書き間違いっす」

「……」


 会長がじっと持田を見つめていた。怪しまれているのは明白だった。翔太はごくりと唾を飲み込んだ。


「……じゃあ楽器はあるんだな、ちゃんと」

「あります」

「……」


 会長は何か思案するように少し黙りこみ、それから静かに、しかし口応えなどさせない厳しい雰囲気を声に滲ませて、

「修理はいつ終わる」

 と尋ねた。


「……」

「来週、もう一度監査を実施する」

「えっ」

「不明な点のあるクラブはどこも再検査させてもらってる。ブラバンも例外じゃない。来週、また来る」

「しゅ、修理が終わってないかも……」

「修理に出した預かり票とか伝票があるだろ。それはどこにある?」

「お」

「お?」

「……大島先生が持ってる……」

「じゃあ、大島先生にそれ貰ってくるように」

「……」

「言っとくけど。しょうもない嘘や誤魔化しは俺には通用しないからな」


 翔太は会長の言葉の裏に確固たる意志を感じて、胸が潰れそうな気がした。


 「しょうもない嘘」をついた持田も会長の眼力とでもいうか、その厳しい態度に恐れをなしたのか、小さな声で「はい」と返事をした。


「それから、お前ら一年じゃ分からない事もあるだろうから、来週は田口も必ず来るように言っといて。行くぞ平井」


 会長がくるっとまわれ右をして部室を出て行くと、平井は大きく溜息を吐きだした。


「じゃあ、そういうことだから。また来週な。ほんと、頼むよ。俺の仕事を増やさんでくれよな」


 と、嘆くように言うと会長の後を追って出て行った。


 後に残った三人は一斉に「はああ」と情けない息を漏らしてその場にへたりこんでしまった。


 昨年申告された備品の内容など翔太たちは知る由もない。部室にあるものはきちんと書きだした。だから「あったはずのものがない」なんてことは翔太たちは考えもしなかった。なぜならブラバンは活動していなかったのだから。まさか楽器が一つなくなっているなんて、どうして考えつくことができる?


 翔太は不安な顔で、

「まさか盗まれたとか……」

 と持田にすがるような目を向けた。


「馬鹿言うな。どこに楽器があるかも分からないような部室だったのにどうやって盗む」

「でも、アルトなんかなかったし」

「だからあ」

 持田が苛立った調子で吐き捨てた。

「田口さんだろ」

「……」


 翔太はまだ見ぬ一人きりの先輩が悪い人だとは思いたくなかった。留年しているのだからどんな人か想像できなくもないのだけれど。しかし、わざわざ活動もしていないブラバンに入っていたぐらいなのだから、何らかの、音楽に対する愛情というか思い入れがあるのではないかと勝手に想像していた。


 そんな翔太の気持ちを察したのか、斉藤がおずおずと翔太に述べた。


「田口さんがアルトサックスなら、持ってる可能性大じゃないか」

「……」

「いや、別にそれは盗んだとかいうんじゃなくて、だな」

 と持田は翔太の気持ちを思いやるように付け加えた。


「部員なんだから。自分のパートだし」

「……」

「とにかく」

 持田が割って入った。


「とにかく、田口さんに会わないことには話しにならねえだろ」

「大島は知ってんのかな」

「……聞きに行くしかないわな」


 正直なところ大島を訪ねて図書室に行くのは気が重かった。行けばあの無理やり持ち込んだ運動部の備品たちを片づけろと言われるのは目に見えていたから。三人のため息がシンクロした。


 部室に鍵をかけると三人は重い足取りで図書室へ向かった。生徒会はまだ備品監査の立会にまわっているらしく、数人の生徒会役員がクリップボード片手に校舎の方へ歩いて行くのが見えた。


 その校舎からは軽音楽部のギターやドラムの爆音がこれでもかと言わんばかりに漏れ出していて、そこに下手なボーカルが混ざってちょっとした騒音を作りだしていた。


 下手とはいえこうしてちゃんと公明正大に活動していて、誰もが知るところの存在なのだから、おならの音ばかりさせているブラバンに比べれば百倍ましだ。もちろん廃部の危機なんてものとはまるで無縁だろう。


 今、自分たちのように廃部をチラつかされているクラブはどのぐいらいあるのだろう。平井は確か美術部や写真部の名も挙げていたのではなかっただろうか。


 確かに文化系の部活なんてのは地味で、存在もあやふやだろうけれど、それでもそこに名前があって一人か二人でも部員がいて、ほそぼそと活動しているのだとしたら。そうして、そういうクラブを潰してしまったとしたら。


 この先この学校で「文化」と名のつくものに関心を寄せる少数派の生徒は絶滅することになるだろう。


 確かに絵を描くだの写真を撮るだのは個人的な趣味で、学校でやらなくてもできる。しかし、である。もしちょっとでも「やってみようかな」という気持ちになった奴がいたとしたら。クラブがあればその好奇心を満たすことぐらいはできるし、「きっかけ」を与えることができるのではないだろうか。


 生徒会の政策ももっともな部分はあるが、そうやってすべてを仕分けしてしまったら、この荒れた高校で微かにでも何かをやってみようという生徒のチャンスを永遠に奪うことになるではないか。


 校舎の入口にさしかかると中庭に置かれたベンチにたむろっている一団に視線がいった。が、翔太は彼らから素早く目を逸らした。


 放課後になるとこういう連中をあちこちで見かける。チャイムが鳴るや否やそそくさと帰宅していく連中と、暇そうに校内でだらだら喋っている奴らと。何をするでもなく、時間を潰す奴ら。


 この工業高校から大学に進学する生徒はほとんどいない。予備校や塾に行っている生徒もほとんどいない。大半の生徒が高卒で就職する。


 翔太は急に自分たちの「手持ちの時間」とでもいうか、ただ学生の身分に甘んじて自由にやれる時間というのは、自分が思う以上に短いのだと強く感じた。大人になることを恐れるというのではなく、ブラバンにうつつを抜かしていられるなんて本当に今しかないのだ。守らなければ、この貴重な時間を。


 昼尚暗い校舎を図書室へと階段を上がっていく途中、また意味なくたむろっているグループをいくつか見かけた。トイレの前を通ると隠しようもない煙草の匂い。暗い目をして、何が気に入らないのか不機嫌な顔。


 翔太は彼らのようにはなるまいと思った。それは彼らを蔑む気持ちではなかった。ただ、怖かったのだ。自分たちを置いて飛ぶように過ぎ去っていく時間が。何もしないで漠然と生きているだけの毎日が。だからブラバンがなければならないのだ。情熱を傾けられるものが何か一つでもなければ、とうていこの先の人生を生きて行くことができないような気さえしていた。


 翔太はそんな不安を気取られないよう、そしてたむろっている暇人たちに目をつけられないよう、図書室へと急いだ。


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