第9話
部室はどうにか掃除ができて、楽器ケースも綺麗に拭き、中を確認してはまた収めるという作業にたっぷり時間を費やして、生徒会から配布されていた監査のための用紙も埋めることができた。
その一方で大島が斉藤と持田に割り振った楽器は、斉藤がトロンボーン、持田がテナーサックスだった。
このパートを決めるのに大島は宣言通り掃除が終わると二人を並べて、部室の黒板に音符を書き「これが全音符、これが四分音符。これ、四分休符」と一渡り音符を並べてその長さを説明し、続いて何通りかの楽譜を書いた。
「あのう、俺らこういうの全然分かんないんすけど」
いきなり始まった音楽の授業に面食らった斉藤が、おどおどしながら訴えた。が、大島はまるで意に介さない様子で、
「ああ、今すぐ覚えなくていいから。とりあえずここに書いたリズムで手拍子してみろ。まず、デブ、お前から」
「……斉藤っす」
「さん、はい」
翔太は脇でその様子を見ていて大島が二人のリズム感を見ようとしていることに気がついた。まず大島が自ら手本を示し、それを再現することができるかどうか。一拍の長さを自分の体の中で数えることができるかどうか。
それから次に大島は持参してきたピアニカでおもむろに音階を吹いて、
「今の音、ドレミファソラシド。覚えたな? じゃ、デブ、俺が今から吹くメロディをドレミで答えろ」
と命じた。
「……斉藤っす」
「さん、はい」
斉藤は冷や汗をかきながらも真剣な面持ちでピアニカの音に聞き入り、
「ドラドソファレシソ?」
と、恐る恐る答えた。
正解。翔太は心の中で呟く。大島はリズム感に続いて、音感を試している。そして翔太は思った。この国語教師がなぜブラバンの顧問になっているのか。それは、音楽を、何らかの楽器をやるからだ。
部室。部員。指導者。これで活動できる体制は整った。
然して大島は二人をテストした結果、リズム感・音感ともに優れている斉藤をトロンボーンに、いずれもちょっとあやしい持田をテナーサックスに決めた。二人には異を唱えることもできなかった。それもそのはずで、なぜそれに決められたのかも分からなかったのだから。けれど、翔太にはなんとなく分かるような気がした。トロンボーンの方が音程を正確に覚えるのが難しい。斉藤は耳がいいようなので恐らくはトロンボーンが向いているだろう。体が大きい分肺活量もありそうだし。持田は背が高く楽器を軽々扱えて、指も長いからテナー。そんなところだろう。
翔太は大島が顧問として二人のパートを決めてくれたことで、一安心し、さあこれから練習が始まるとワクワクしながら、大島の次の言葉を待った。
が、大島の放った言葉は翔太の期待していたものとはまるで違っていた。
「じゃ、あと頼むわ」
「はっ?」
大島は机に黒い四角いものを置くと、翔太に向って言った。
「音階とロングトーンから教えといて」
机に置かれたものを見るとそれはチューナーだった。
「なっ……。ちょ、ちょっと待って。なに、それ。どういうこと」
「最初に言ったはずだけど? 好きに練習しろって」
「いや、でも、顧問でしょ。先生いないと練習なんて……」
「とりあえずお前が基本教えといて」
言いながらもう体が扉の方に向っている大島を翔太は慌てて追いかけようとした。が、大島は三人を見渡して皮肉たっぷりに、
「俺は図書室片付けないといけないからなっ」
と吐き捨て、ふんと鼻を鳴らして唖然とする一同を残して部室から出て行ってしまった。
後に残された三人は乱暴に閉められたドアを眺め、ただ持田が「そうきたか……」と呟くだけだった。
しかし翔太はすぐに気を取り直して二人にマウスピースをケースから出すように指示した。
「最初はつまんないかもしんないけど、まず基礎だから」
と前置きして複式呼吸の説明をし、自分のマウスピースを鳴らしてみせた。
三人きりのブラバンの出す最初の音。それはリズムを刻むメトロノームに合わせたおならのようなぶーぶー音。
椅子を並べてひたすらぶーぶー。廊下に面した窓から運動部の連中が中を覗いては「なんだ、あれ?」と不思議そうに、または怪訝そうに通り過ぎて行く。
翔太は何度も斉藤と持田の表情を窺い、嫌そうじゃないか、退屈じゃないかとはらはらしていた。二人が「やっぱり辞める」と言いだしたらと思うと、気が気ではなかった。
といって、この退屈で単調な練習をすっ飛ばすわけにはいかない。翔太は慣れたはずの呼吸が俄かに息苦しく感じていた。
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