第39話
驚くほど、気持ちは落ち着いていた。
純白のドレスに身を包んだ要さんは、いつもより魅力がないように見えた。花嫁という枠に収められたら、個性は輝かないのかもしれない。
そして。要さんが時折見せる、泳ぐような目つき。僕は、その理由を知っている。そして、その原因も察しが付いてしまった。祝福する人々の中で、一人だけ明らかに異なる顔をしている男がいた。緩んだ口元と射るような目つきで、新郎には目もくれず新婦だけを注視し続けている。
見たくなかった。中沢九段のそんな姿を、一生見たくはなかった。
凛として美しい対局姿。柔らかい物腰。そして何より力強くかっこいい指し手。将棋界にとって、これほどの柱はない、という人だった。定家四冠が強さの象徴であるとすれば、中沢九段は正しさの象徴なのだ。
それが。要さんにとっての「先生」だったなんて。思いすごしであってほしい。
披露宴が終わり、二次会会場までの移動のとき。どうしても、前を歩く中沢九段のことを目で追ってしまう。要さんのあの時の言葉からして、二人はまだ関係を持っているのだろう。
中沢九段は師匠の弟弟子で、僕や要さんにとっては叔父のような存在だ。面倒はよく見てもらったし、将棋を教えてくれたこともある。けれども僕には、とても冷たい人に見えていた。ほとんどしゃべらないし、将棋以外のことは全くしなかった。テレビもラジオも、雑誌さえ全く見ない人だった。
二人が恋人同士という姿は思い浮かばない。あの時、要さんは「先生」と呼んでいた。それが全てのような気がする。
僕の予測にすぎないし、事実だったとして首を突っ込むような問題ではない。けれども。僕の中で恐怖の感情が湧きあがってくるのだ。僕も、そのような対象として見られていたのだろうか、と。
僕だって、誰かの標的になったことはある。その度に、悲しくなるのだ。勝負の世界で、それ以外のものを求めてどうするのだ、と。そして反省する。僕は要さんに対して、何を求めていたのだろう、と。
この世界以外のことは知らない。だから、この世界が他と比べてどうなのかもわからない。それでも、なんとなく、不思議な世界なんだと実感する。
地下鉄を乗り継ぎ、また少し歩く。二次会の会場は、地下のおしゃれなバーだった。こういうところは少し居心地が悪いうえに、目の前には知らない人が。そもそも新郎が将棋関係者でないので、会場の半分は別世界の人間なのだ。
「木田さん……ですよね」
向かいに座った男性が声をかけてきた。長くウェーブした茶髪、きらきら輝くブレスレット。自己メンテナンス方法が僕らとは少し違う世界のお方のようだった。
「はい」
「見ましたよ、ニュース。タイトル初挑戦で初獲得、すごいっすねえ」
「ありがとうございます」
注文していたジントニックが届いた。男は乾杯しようとするそぶりを見せたが、僕は気付かないふりですぐに口を付けた。
「あれ、お酒飲めるの」
「好きですよ」
「いや、もっと若いのかと思って」
「まだまだ幼いんですよ」
司会が何やら話しているが、ざわついていてよく聞こえない。ゲームが何やらかんやらということらしいが、興味がない。何となく会場を見渡し、かわいい女の子を探す。二次会は出会いの場だと言うけれど、今の僕には眺めるだけで精いっぱいだ。
結婚式というものは、新郎新婦は大忙しで、二次会でもテーブルを練り歩き挨拶をして回っている。僕らのところにも来たが、新郎の落ち着いた表情に比べ、新婦のいかにも幸せですという顔が痛々しかった。要さんはいつでも頑張りすぎる。そこに付け込まれるということも、あるはずだ。
面倒くさい。色々と。
トイレに立ったついでに、席を移った。普段はあまり仲良くしているわけではないけれど、それでも女流棋士の輪に入ると落ち着いた。僕は、この世界の中で何とかやっていく方法は、身に着けていたようだ。
二次会が終わり、もうこれで役目は終わりだ、と思った。早くこの息苦しい正装から解かれたい、というのが僕の気持ちだった。
「木田さん、この後予定どうなの」
けれども、すんなりと日常に帰ることはできなかった。先ほどの茶髪が、話しかけてきた。
「予定は……」
「ああ、木田君。一門で集まる話だっただろ」
「中沢先生……」
いつの間にか隣にいた中沢九段が、僕と男の間に割って入っていた。男は何か言いたそうだったが、中沢九段の貫禄の前に引き下がった。何事もなかったかのような顔を作って、去っていく。
「ああいうのと付き合ってちゃいかんよ」
「いや、私は別に……」
「君は一流の実績を作ったんだ。一流の振る舞いを見せて生きていかなけりゃならない」
「……はい」
その姿は、棋士の鑑だった。やはり凛としていて、ブレが感じられない。そう、これが僕の見ていたいつもの姿だ。
「先生」
「何だね」
「先生は、結婚しないんですか」
僕は、確かめたかった。中沢九段の、尊敬される棋士の実態を。
「ははは。まあ、僕は家庭を持てない人間でね。浮気性な女が好きなんだ」
「それは意外です」
「ははは。もちろん、そんな風には見せていないから。僕も一流と呼ばれていた時があるから」
「今でも大活躍なさってるじゃないですか」
「いや、僕は五段に負けるような男ではなかったんだよ」
胸に突き刺さってくる言葉だった。本当は、この人はプライドの固まりに違いない。そして、それは幸せな家庭を持つのに邪魔になるだろう。
この偉大な棋士に、将棋以外のことを求めても仕方がない、とすら思えてくる。
「でも、五段の頃の先生はすごい強かったでしょう」
「そうだね。あの頃は勢いがあった。川崎君もこの先活躍してくれれば、僕も救われるわけだ」
色々とむなしくなった。何人かに三次会を誘われたが、全て断った。何となくだが、海に向かおうと思った。
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