第35話

 高いけれどたいしたことのない食事を食べて、何も買う気もないのに百貨店をうろうろした。山手線に乗り初めての駅で降り、ぶらぶらして、結局帰宅した。

 気持ちが軸を失っていた。現実は、あっさりと僕に宣告をした。弱いだけでなく、質が違う。今から努力して、どこまで追いつけるというのだろう。川崎は、ずっとずっと先にいる。

 無理だ。

 ワインの栓を抜き、コップに注いだ。味わうこともなく、喉に流し込む。

 酔いが苦しみを麻痺させると同時に、僕の中の僕が、鮮明にこちらを見つめているのが分かった。本当は、こんな日は来ない方がよかったのだ。女流の中でも一番になれなくて、苦しくて苦しくて、そっちの方がよかったのだ。今日の苦しみは、一刀両断された苦しみだ。心の隙間は埋められるが、完全に分離してしまったものはなかなかくっつかない。

 盤の上に、座布団を置いた。今は、見たくない。

 いつかの記憶が、脳裏をかすめた。

 電話を手にした。

 ダイヤルする。呼び出し音が三回、四回、五回……

「あ、どうしたの?」

 不安定な声。寝起きなのだろうか。

「いまどこ」

「え、家だけど」

「来て」

「え」

「ここに来て」

「ここってどこ」

「私の家」

「それ、どこ」

「メールで地図送るから。三十分で」

「いや、ちょっと待てよ、おい」

 電話を切った。喉がからからになり、ワインを飲み込んだ。

 地図とマンションの名前、部屋番号を記載してメールを送る。そして僕は、ベッドに飛び込んだ。とめどなく流れてくる涙を、シーツでぬぐった。

 何故こんなことをしてしまったのか。

 自分の中の色々なものが、僕の中から飛び出そうとしているようだった。

 わかっていた。届かないものは、届かない。それでも、目指していたかった。近づいていたんだ。けれども、遠すぎた。タイトルを獲ったぐらいで、何かが変わったと思い込んでいたのか。あの日から、一度だって距離が縮まったことはなかった……

目をあけられなかった。自分のもの、自分の姿、何も見たくなかった。

 四十分ほどして、ドアホンが鳴った。起き上がり、頬を叩いてから玄関に向かう。のぞき穴の向こうには、不安げな顔の川崎がいた。

「ごめん」

 口から出てきたのは、そんな言葉だった。

「どうしたの。入っていい?」

「うん」

 しわくちゃのシャツにジーパン。髪の毛はべったりとしていて、多分急いで家を出てきてくれたのだろう。僕は、初めての来客を招き入れた。

「酔ってるの」

「うん」

「今日、対局あったんだろ」

「うん」

「それで飲んでたの」

「……それだけじゃない、と思う」

 新しいコップにお茶を入れようとしたら、川崎はそれを手で制した。そして、ワインボトルを手に取る。

「こういうのは、酌み交わしながら語るもんでしょ」

「じゃあ、注がせて」

「おう」

 冷蔵庫から、チーズを取りだした。僕は、何も食べずに飲んでいたのだ。

「なんか作ろうか」

「え」

「木戸ってさ、料理しないだろ。台所見てわかった」

「材料ないよ」

「なんかあるだろ」

 川崎は台所で勝手に料理を始めた。大したものはなかったが、卵とポテトチップス、鰹節で一品作ってしまった。盛り付けにもこだわっているようで、見た目がさっぱりしている。

「昔よく作ったんだよ」

「これを?」

「みんなうちで遊んで、お菓子を置いてくんだよね。だから次の日、こんな風にしてさ。ネギとか入れてもいいよ」

 食べてみると、とてもやんわりとした味がした。しけりかけたポテトチップスなのに、ちょっとおしゃれな食べ物みたいだ。

「よく料理するの」

「まあね。それが東京出てくるときの約束だったから。将棋で失敗しても、ちゃんと一人で生きていけるように、ってことだったみたい」

「そうなんだ」

 川崎の意外な一面を知った。まあ、ほとんど私生活のことなんて知らなかったのだけれど。

「で、どんなんだった」

「え」

 川崎は、盤から座布団を取り上げた。そして、駒を整列し始める。

「ちょっ……」

「将棋のことは、将棋で解決。それがプロっしょ」

「待って」

「木田?」

 僕は、川崎の手を握っていた。川崎の瞳が、直線的にこちらに向いている。

「プロ……じゃない」

「何言ってんだ」

「私と、川崎たちは別の世界にいる。同じ理屈では語れない」

「将棋で食ってんだろ、同じプロだよ」

「わかれよ!」

 僕は川崎の手を離すと、盤の反対側に座った。歩を五枚取り上げ、絨毯に転がす。と金が五枚だった。

「川崎が先手」

「……わかった」

「絶対、手を抜かないでね」

「……待って」

 川崎は、コップを手に取り一気にワインを飲みほした。

「条件は、一緒だ」

「……うん」

 二人、無言で頭を下げた。川崎の体はフラフラと揺れていた。僕も、おかしくなっているのかもしれない。初手、7六歩。僕は、3四歩。

 涙がこらえられなかった。何故かわからなかったが、手が進むにつれてその理由が理解できた。僕が思いだしているのは、小学生の時のあの日。そう、川崎と将棋を指すのは、あの時以来だったのだ。

「木田……大丈夫か」

「わかんない。わかんない……」

 川崎が、僕の背中をさすってくれた。それでも、次の手を指した。目の前がぐるぐると回っていた。それでも、次の手を指した。

 儀式のように、淡々と指し続けた。何を指しているのかもよくわかっていないけれど、本能がちゃんとした手を選んでいるようだった。川崎も、目がうつろになっている。元々お酒に強くないのかもしれない。

「あ……」

 いつの間にか川崎の王将に、詰めろがかかっていた。何だ、勝ちじゃないか……そう思ったけれど、全く僕が読めない順で、こちらの玉が詰まされた。

「負けました……」

「なんか、詰んじゃったね……」

 悔しくもなんともなかった。知っていたことだから。川崎は僕よりうんと強いし、どんな時でも手を抜いたりしない。それでいて、誇らしげにすることも、卑屈さを見せることもない。

 涙が止まり、目の前が真っ暗になった。本当に、安心してしまった。もう、何も考えることなんて、ないんだろう。

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