第34話
「木田」
その日の朝、会館の玄関で。
「川崎」
「おはよう」
振り返ると、スーツ姿の青年。
「いよいよだな」
「別にたいしたこと、ないよ」
こんなに早くから、こんな格好。川崎も対局なのだ。知らなかった。
「でも、初めてだろ」
「うん。まあ、これからどんどん増える予定」
階段を上がる。いつもと変わりはない、と思う。特に気合を入れたりはしなかった。服装もたいして凝ったものではない。化粧も薄いし、髪も軽く結ってきただけだ。
それでも、胸が痛い。血液が、速すぎる。
対局室に入ると、相手はすでに盤の前に着座していた。ひょろりとした体を、ゆっくりと左右に揺らしている。
夏川四段。歳は僕より二つ上、プロになったのは去年。彼は、僕と同じ時に奨励会を受験し、合格していた。
運命、とまでは言わない。それでも、意識せざるを得なかった。スタート地点では、僕が負けた。その後、異なる道を歩んできて、今日、対峙する。
隣の部屋には、川崎がいる。タイトル戦は惨敗だったが、それでも調子を落としたりはしなかった。ひょっとしたら、結果はただの実力通りだったのかもしれない。これからまた、彼は活躍するだろう。
僕が手を伸ばしたいのは、あそこなのだ。夏川四段は、通過点にしなければならない。
ベテラン観戦記者が、僕と夏川四段に挨拶をしにきた。女流が男性棋士と対戦した棋譜は、だいたい新聞に載る。ときには悲惨な棋譜が、全国にさらされてしまうことになる。それは、当たり前の悲惨として、受け止められる。
振り駒で、後手になった。前髪が少し邪魔だったので、かき上げた。
相手は振り飛車党。静かな手つきで、角道が開けられた。僕はそれに対し、飛車先を突いた。矢倉にも角換わりにもならないが、何となくこちらの方が気合が入ると思った。
持ち時間の短い将棋では、知っている形になった方が随分と安心する。だからこそ、どのような戦型を選ぶかで、相手が僕の力量をどのように考えているのかが分かる。特に夏川さんは、相手によって指し方を変えるタイプだ。ベテランの先生や成績の悪い若手にはゴキゲン中飛車で軽快にさばき、上位の先生や元気のいい若手にはじっくりと四間飛車で指す。相振り飛車になりそうなときは最初から様子見のような手を指す。
三手目、1六歩。予想外だった。これではまだどちらとも言えない。僕は、角道をあける。夏川四段は、5六歩と付いた。ゴキゲン中飛車だ。
細かいことを気にしている余裕はない。僕は、5二に右の金を上がる。ゆっくりはしない。このまま超急戦と呼ばれる変化に誘う。そして、予想通り避けられる。研究で差が出るような変化には持ち込まないのだ。それが勝ちやすいのだと夏川さんは知っている。
抑え込めるかどうか、そういう勝負だ。夏川さんは顔色一つ変えず、時折首をかしげている。別に、困っているわけでも疑問に思っているわけでもない。子供の頃からそうだったが、彼は盤上で考えることが苦手なのだ。頭の中の駒は自由に動くが、盤上の駒はじっとしている。盤上を見つめていると、現状の局面に思考を引き戻される、と語っていたことがある。
僕は、いつになく盤上に没頭していた。元々僕には、はっきりとした盤面が見えていない。そこには様々な絵が混入し、ときにはキャンバス自体が消失する。見ているけれど、見えていない。
駒がどんどん前進し、思い通りの展開に持ち込めていた。このままいけば、何も問題がない、そう思っていた時だった。首をかしげたまま、夏川四段は大きくうなずいた。そして、細い右腕が、盤を横切る。7七の桂馬が、8五の歩を取った。それは、すぐに僕の飛車に取り返される桂馬だ。しかしそのあと飛車をぶつけられる。こういう戦型ではよく出てくる筋だが、今されるとは思ってもみなかった。
こんなものは、取るしかない。僕の駒は抑え込むために前に出ているので、玉の固さというものはないに等しい。飛車角を好きに動かされたら、終わりだ。飛車交換されても、先手先手で受けに回れば、何とかなりそうな気がする。それ以外に活路はない……
桂馬を得しても、受けには効かないし、すぐに攻める手もない。相手は陣形も低く、飛車の打ち込み場所はない。だから、選択肢はこれしかなかったのだ。決して、これで有利だとは思わない。それでも、他の手ではどんどん苦しくなる。
8二飛車。取ったばかりの飛車を、元居た場所に打ち直す。あの時とは違う、切ない自陣飛車だ。
それでも。このような展開が、なんとなくいけると思っていたからこそ、あの桂馬が見えなかったということでもある。夏川も読み切っているわけではないだろう。何となく攻めが続く、そう考えるタイプだ。そして、何となくで押し切れる相手にだけ、彼はこの戦法を選ぶ。
色々な歩が突き捨てられ、角が出てきたり引いたり。こちらはもう使える駒がないので、耐えるしかない。持ち時間もなくなり、秒読みの声が頭蓋骨を揺らしているようだ。
駄目だった。途中で気が付いた。夏川さんは全てを読み切っていた。僕の力、僕の性格、僕の気合、僕の空回り。決して強い若手ではないが、何度も何度も勝負の一局を勝ってきた彼には、色々なものを見切る力が付いているに違いない。振り回されてふらふらになった僕には、少しの優勢を維持しきるだけの余裕などありはしなかった。
僕は、ずっと相手のことを見ずに戦ってきた。ほとんどは勝って当たり前の対局で、間違えないこと、当たり前のことをし切ることを考えてきた。そして強い相手と指すときは、もっと強い相手のことを考えてきた。そこを超えた先にあるもの。ライバル、頂。その一局を勝っても、先につながらなければ意味がないと思っていた。
「こうか」
小さな声だった。でも、決定的な一言だった。ついに僕の陣内に飛車が打ちおろされ、そしてそれは捕まえることができなかった。食い破られた。僕の将棋とともに、僕の心構えを。
負け惜しみではなく、読みとかそういう部分では差がない、とよく感じる。けれども勝つための技術に関しては、彼らとの間にはっきりとした差がある。
作業のように、終盤が過ぎて行った。体から熱が逃げていくのが分かった。僕は今日はじめて戦場に立ち、そこでの礼儀を叩きこまれた気がした。
「負けました」
その言葉を発するのに、何の躊躇いもなかった。完敗だった。笑いたくなるほどの、惨めな負けだった。
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