第29話

「しっかしねー」

 二日目。控室の人数も増え、活気も出てきた。

 しかし、対局の方はいまいち盛り上がっていない。

 封じ手も予想通り、いまだに前例のある展開だった。

「これ、このままいったら見所ないよ」

 A級の先生が、眉をしかめながら局面を見つめている。そう、この前例は、一方的に後手が負けたことで有名な一局なのだ。しかも中盤に差し掛かり、変化するタイミングが難しくなってきている。先手玉は穴熊に潜り、いつでも攻撃する準備ができている。それに比べ後手は、駒をもらわないと反撃できないし、囲いもそれほど固いとは言えない。何よりひどいのは、手渡しされたときに指す手が難しいということだ。

「知らないってことはないよなー」

 善波も首をかしげている。僕も、同じ気持ちだった。あの、中沢九段と挑戦権を争ってきたときのような熱いものが、感じられないのだ。このまま負けても、何も残らない。何とかしろよと、今すぐ対局室に行って叫んでやりたい気分だった。

「あっ」

 善波が叫んだ。モニターを指さしている。

「おっ」

「えっ」

 皆それぞれの声を上げた。動いたのは先手の駒。定家四冠の方が、手を変えたのだ。

「なんで」

「攻めつぶす気か……」

 不自然、というほどの手ではない。しかしここで開戦するのは、少し急ぎ過ぎているように思える。

「焦れたのかな」

「いやあ、研究してたんじゃないですか」

「これで悪くなったらひどいね」

 僕は、あまり大した感想を持てなかった。その手の意味がわからなかったからでもあるし、それで形勢が悪くなるようにも思えなかったからだ。そして、僕以外の男性プロは、たった一手にこれだけ大騒ぎしている、という事実に少し胸を痛めた。そこが、彼らと僕の差なのだろうか。

 長考が続いた。それはそうだ、全く新しい局面、今まで誰も経験したことのない世界に突入したのだから。まあ、矢倉の場合数手後には同一局面に合流、ということも少なくはないのだが。果たして、川崎がそれを選ぶのか。定家四冠が、それをよしとするのか。何となくだが、二人とも意地を張るタイプだと思う。クールなようでいて、筋は通すのだ。

 にわかに控室が騒がしくなった。根岸さんの仕事も増える。解説から帰ってきた先生がコメントをし、交代で別の先生が解説に向かう。善波や僕にもコメントが求められる。検討班が二つに増え、駒を動かしながらああだこうだ言う。ネット中継を見ていた若手から僕や善波にメールが入ってくる。「アマの大会で前例があるようで……」「どのような手つきでしたか?」「俺なら後手持つ」

 みんな将棋が好きなんだなあ、と思う。当たり前だけど、時折疑ってしまうことだ。プロになる途中では、辛くてやめたいと思うことがあるだろうし、将棋自体が嫌いになって行く人も見てきた。僕だって、何度も挫折しかけた。

「ひゃー、食らっちゃった」

「こりゃいかん。穴熊はひきょーなり」

 けれども、ここにいる人は、将棋を楽しみまくっている。自分が対局室にいないことを悔しがっている人だっているだろう。それでも、目の前にある素材に対して全力で取り組んでいる。僕も、その中に入り込もうとした。将棋がどこまで好きなのか分からなかったが、この人たちの中にいることは幸せだと思ったから。

 約一時間。川崎は一度も対局室から出ず、ひたすら考えていた。簡単なようで、考え続けることは大変だ。どれだけ考えても、相手が予想にない手を指してくることがある。どれだけくまなく検討しても絶対に十分な考慮などないので、どこかで諦めてしまいそうになることもある。相手の指し手を見てから決めればいいや。向こうだって同じだけしか時間がないんだし。色々な言い訳をして、思考を停止する。

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