第28話
比べ物にならない空気の緊張感が、こちらまで伝わってくる。
山中の老舗旅館。タイトル戦にふさわしい、簡素で美しいところだった。今回僕は勉強のためだけに、ここまで来た。
定家四冠対川崎六段。注目の対局だが、東京から遠いということもあり一日目から来ている人は少ない。ネット中継もされているので、自宅で見ているプロも多いのだろう。
男性のタイトル戦では、だいたいのプロが和服を着る。定家四冠はもちろん、川崎も和服を着ている。濃い藍色の、さっぱりとしたものだった。似合っているとは言えないが、何となく風格が出ている気もした。
すでに対局は始まっており、本格的な相矢倉になっている。最近は様々な戦法が指されるようになり、特に若手は自由奔放な振り飛車を好む傾向にある。しかし川崎は、子供の頃から居飛車の基本的な形ばかりを指し続けている。研究会に参加しているという話も聞かないし、将棋会館でもあまり見かけない。家で黙々と研究しているのだろうか。それとも、実戦だけで鍛えられているのだろうか。長い付き合いだが、そういうことは何も知らない。
ここ最近仲間内では、川崎が何勝できるのか、が話題になっていた。タイトルを獲る獲らないでは、賭けにならないのだ。何せ定家四冠は、十年間で三度しかタイトルを奪取されていない。しかも普段の対局でも、二十代に対して勝率八割以上、六段以下には二敗しかしていないという驚異的な勝ちっぷりなのだ。一勝でもすれば川崎の健闘、そんな雰囲気がみんなの間に漂っていた。
冷静に考えれば、その通りだと思う。川崎の力は若手の中では筆頭だが、将棋界の中ではまだまだひよっこなのだ。誰に勝ってもおかしくないが、誰に負けても驚かれない。調子がいいときにこうしてタイトルに挑戦できても、長い七番勝負の間ずっと調子を維持できるわけではない。川崎は負けるだろう。二勝できれば上出来だ。
それでも。それでも、僕は川崎を応援している。僕がずっと目標としてきた人間が、あっさり負けるところなんて見たくない。川崎を目指すことが、頂を目指すことであってほしい。
まだ、勝負どころは来ていない。何百局と繰り返されてきた序盤だ。おそらく一日目はそれほど進まない。二日制では礼儀みたいなものだ。
数日前に自分が経験したものとは、明らかに違う空気だった。本当の日本一が、ここで争われているのだ。多くの人が望んでも届かない場所。年間のべ十四人、実際には十人未満しかその舞台には立つことがでない。タイトルを持つのはたったの四人。遠い。ひどく遠い。
「んー、今日はどこまでいくかねー」
立会人のベテラン先生は、将棋の内容には今のところ興味なさそうだった。何かトラブルがあったり千日手になったりしたら大忙しだが、今日のところは特にすることはないのだ。気が緩みまくっている。
「案外川崎は手を用意しているかもしれませんよ」
真面目に駒を動かしているのは善波五段。僕たちと同学年で、川崎とは奨励会も同期。自称川崎公認のライバルだが、四段になったのは二年遅れ、今のところ目立った活躍もない。
「まあ、ここでどう指すかだよねぇ」
その前に座るのが僕。善波が定家四冠、僕が川崎の側を持って検討をしている。局面は矢倉の最新定跡、先手が穴熊に潜った後、後手がどう対応するかというところだ。
「まあ、6四角が普通だね」
「でも6五歩に7三角と戻るのが、なんかねえ」
「そうは言ってもみんなそう指すからね。ただ、俺も必然とは思わない」
他にもプロは来ているのだが、解説会に出ていたり、散歩に出かけていたり。二日酔いで寝ているんじゃないかという人もいる。
「あ、今の載せてもいいかな」
「え、いやあ、控え目にお願いしますよ」
メモ帳片手に声をかけてきたのは、ネット配信係の根岸さんだ。パソコンに指し手や解説を入力し、頻繁にネット配信している。指し手のほうはなかなか進まないので、控室の様子などが主な現在の情報だ。
「ええと、『善波五段いわく、現在の定跡が必然とは思えない』と」
「いやいや、まずいですよそれ」
暇といえば暇だった。それでも、全てを見守りたいという思いがあった。後はともかく、最初のタイトル戦でどのような戦いぶりを見せるのか、それを見届けたかった。
「木田さんは何かコメントないかな」
「うーん。川崎は胃腸が弱いんですよ。昨晩いっぱい食べたと聞いたので、胃腸の調子がどうなるかが勝負に響かないといいですね」
「なかなか凝ったコメントありがとう」
自分が対局しているときは、あんなに時間が足りなくなるのに、なんて思う。今、川崎も独特な時間に浸っているだろうか。
あそこに、たどり着くには。
駒を動かしながらも、余計なことばかりを考えてしまう。席をはずし、外の空気を吸った。全く緊張感のない空気だ。
腕をぶんぶんと振り回した。将棋って、疲れる。
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