第26話
鼓動の音が脊髄から染み込んできた。
単純に疲労が蓄積するうえに、全く予想外の一手を指された。飛車の頭にただ捨ての2七桂。取れば横利きがなくなるが、取らなければ3九が拠点になってしまう。頭の中が沸騰しそうになっている。
ここだ。ここで、三分だ。
奨励会試験に落ち、悩み、迷い、無力感に襲われ、それでも食らいついてここまできた。望んでいた世界にはまだ遠いけれど、今ようやく初めての「日本一」が手に届くところまで来ている。多分、次の一手で決まる。
この手は、僕が放った角のただ捨てが誘引したものだ。意地とプライドが、ひねった手を見せつけようとさせるのだ。最善手ではない。冷静な一手が、決め手になる、はず。目を閉じた。青い海が……
もう、持ち時間はなくなった。そして、必要なかった。きっとこの一手で、相手も時間を使い切らなければならなくなる。お互い秒読みで、最後の殴り合いだ。
駒台から飛車をつまみ上げた。角を犠牲にして取った飛車だ。敵陣に打ちおろして、攻め合いを期待されていた飛車。僕はそれを、自陣の飛車の横に置いた。
3八飛車。二枚の飛車が、ぴったりとくっついている。見たことのない受けだったが、自信があった。3九などからばらして桂馬がいなくなれば、2八の飛車が縦に利き、攻めが続く。放っておけば、次に桂馬を取ることができる。
これ以上の手があるとしても、今の僕には届かないだろう。
五分経ち十分経ち、相手の持ち時間もなくなった。これからは二人とも一分以内に次の手を指さなくてはならない。
飛車の力が強く、自玉は絶対に詰まない。その代わり、相手玉も今のところは安全だ。駒をもらわなければ、こちらが攻め勝つということはない。
そんなわけで、指された手は2五香だった。
桂馬を取らせず、攻め味も見せた強情な一手。善悪なんて考えてられない。言い分を通すわけにはいかない。
すぐに、三十秒が経過する。ここで、だいたいの指し手は決まっている。それでも、延々と読み続ける。終盤の失着は、負けに直結する。特に僕の飛車は、どちらも相手の人質になっているような状況だ。どんな危ない筋が出現するか、わからない。
喉がからからになる。肺が痛くなる。子宮が嘆く。全てのものを受け入れて、勝負に没頭する。
四角い盤が、時折形を崩すようになった。駒台に乗っている駒の文字が見えなくなってきた。頭の中の盤で再現するしかない。
「ああっ」
思わず声が出た。古いものを全部吐き出したのかもしれない。
何分ぐらい戦ったのだろう。よくわからないが、負けにはなっていない気がする。しかし、全く勝ちにはなっていない。これが、女流棋界を支えてきた力。これが、将棋にまっすぐ取り組んできた力。
二枚の飛車が、いつまでもその力を保っていた。そしてやっと、僕に攻める手番が回ってきた。戦いは二筋へと移った。攻めるといっても、渡す駒によってはこちらが急に危なくなってくる。読まなければいけないことが多すぎて、頭の中の盤がくるくると回転しているようだ。しかし、一筋の道も見えている。この勝負は、この道がどこに続いているかによって決まる。
後手玉に詰めろがかかった。それに対し、詰めろ逃れの詰めろが放たれた。ここまでは、プロならば誰でも読める手順だ。問題は、ここでどう受けるか。一見よさげな手は、全て罠が待っている。玉を動かすのは、と金に迫られて無効。中合いをすると、香車を打たれて厳しい。だが、一つだけ、駒を使わず、玉も動かさない手があった。絶対にこれで勝ちという確信はないが、それでも何となくやれそうな気がした。
3八の飛車へと手が伸びる。その時、袖が駒台に引っ掛かった。歩が二枚、こぼれ落ちる。
「七、八……」
しかし、秒読みは待ってくれない。この手だけは絶対に指さなければならない。僕は飛車の後ろに指をかけ、何とか一マス、押し出した。
3七飛車。
攻めに利かせ続けながら、玉の逃げ場所を増やした一手。王手は続くが、こちらの玉に詰みはない。これで、ぐっと勝ちが近づいたはずだ。相手から有効な手が少ない。と金が動く手には、2七飛車寄りが決め手になる。これが、詰めろ逃れの詰めろ。受ければ、2五の香車まで取れる。勝ちになった……
けれども、意識が遠のいていく。駒台から歩が落ちた。駒を拾わなければならないが、右手は床についたまま動かなくなっている。首に力が入らず、腰から下しか見えない。読みにない手を指されたら、もう対処できないかもしれない。ああ……
「負けました」
その声を、僕はすぐには理解することができなかった。最後の力を振り絞って頭を上げると、そこには深々と一礼する峰塚四冠の姿があった。
そしてこの瞬間、峰塚三冠になったのだ。
僕も、精一杯頭を下げた。
「これで、手がないもんね」
いろんな人が対局室になだれ込んできた。フラッシュがまぶしかった。
「ありがとうございます」
そして僕は、涙が止まらなかった。泣く予定なんかなかったのに。今一番うれしいのは、峰塚さんが僕を認めてくれたことだった。ここから逆転なんて、いくらでも起こることだ。僕相手にはそれがないと思い、投了してくれたのだ。
師匠が肩を叩いた。どんな顔をしていいかわからなかった。要さんが笑っていた。僕も笑おうとしたが、笑えているだろうか。
一つ目の日本一を、やっと手に入れた。けれどもまだ、まだまだ遠い。女流の一番にも、若手の一番にも、将棋の一番にも、とても遠い。
掌の中にある歩を見つめながら、僕は誓った。まだまだ、立ち止まらない。
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