第23話
盤面に集中していたのに、気配を感じた。来ないと言っていたのに、あの人は現れた。僕に見つからないように襖の陰に隠れているけれど、半分以上見えてしまっている。
顔を合わせるのは半年ぶりぐらいだ。プロになってからは、ほとんど会っていない。
あの人がいなければ、僕はこの世界に入ることができなかっただろう。
僕が本当に心を許している人は、世界に二人しかいない。血がつながっていないのは、あの人だけだ。
自分の頬が緩んでいるのに気が付いた。昔のことを思い出して、存外に楽しくなったのだ。辛いこともあったけれど、僕はここまで将棋をやめずにこれた。今日の結果がどんなふうになっても、やめることはないだろう。
局面は、終盤に差し掛かっている。
「さくらを迎えに来ました」
扉の前に、母が立っていた。僕には、連行しに来た警察官に見えた。
「さくらちゃんのお母さん?」
「はい」
恐る恐る、母の顔を見た。両目がいつもの半分ぐらいの薄さになっていた。怒っているときの特徴だった。
「そうですか。いやあ、さくらちゃんは強くなりますよ」
「やめさせます」
「え」
「将棋なんて、やめさせます。さくらは女の子なんです」
母は、僕の手をつかんだ。体が硬直して、唇も震えていた。
「……将棋なんて、ってことはないですよ。頑張ってる女の子もたくさんいます」
「いいえ。何と言われようとやめさせます」
「それに、さくらちゃんは男の子でしょう」
「……何を言ってるんですか」
「気付かないはずがない。さくらちゃんは男の子だ。だから、将棋を好きになってもおかしくないでしょう」
母はそれ以上何も答えず、僕の手を引っ張って道場を出て行った。
家に帰ってからも、二人とも黙ったままだった。食事の時間が近付いても、母は椅子に腰かけてぼんやりとしていた。
「たっだいまー」
沈黙を破ったのは、樹だった。
「あれ、準備は?」
母は樹にうつろな視線を向けたあと、首を横に振った。
「何かあったの」
僕も、すぐには声が出せなかった。樹はそんな僕を子供部屋まで手招きして連れて行った。
「姉ちゃん、母さん怒らせたの?」
「……うん」
「悪いことした?」
「……わからない」
「ちょっと待ってて」
部屋から駆け出て行った樹は、大きな四角い箱を持って戻ってきた。
「じゃーん」
机の上に置かれたのは、白くてまん丸いケーキだった。最初意味がわからなかったが、四角いチョコレートに「おめでとう」と書かれているのを見てわかった。僕の誕生日だったのだ。
「って、みんなで言う予定だったんだけど」
「……ごめん」
「謝んなよ。なんか、理由も想像つくし」
「……ご……ありがとう」
それからしばらく、樹以外の家族とは口を利かなかった。道場にも行かなかったし、将棋も指さなかった。
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