第21話

 視界が固定できない。

 初めてではないのだ。一ヶ月に一回は訪れるもの。だから、対局と重なることがないわけではない。ただ、運悪く、僕はもっとも大切な勝負のさなかにいる。

 左手で腹部をさする。温かくなると、少し楽だ。それでも、そんなことを考えさせられるだけで困っている。ただひたすら盤上に没頭できていた数時間前は、いったいなんだったのか。条件は同じなのだと頭ではわかっても、それでも僕は悔しくてたまらない。この痛みと、この痛みの意味が、胸の芯まで締め付けてくるようだ。

 平べったい駒が、自己主張を隠さずに僕に訴えかけてくる。どれもが王将なんか放棄して、どんどん前に出て行きたがっている。体が脳を支配して、僕の将棋を邪魔してくる。ああ、攻めてしまいたい。相手は絶対に攻めてくる。ここで殴りあえなくて、これ以上、上を目指せるというのか。

 混乱が混乱を助長している。こんな混乱は困難な懇願を懇請させる。

「ああ……」

 思わず声が出た。心が漏洩した。

「う……」

 目を閉じた。息を吸った。大きく吐いた。

 舌を噛んだ。

 耳の後ろの方で、きらきらと光るものがあった。僕はそのきらめきを追いかけて、包み込んだ。研修生の頃、初めてその戸惑いに襲われた時のことを思い出す。僕は必死に、それがなかったことにして盤上の絵画を見つめ続けていた。どんどん渦巻いていく模様。次第に、将棋の内容について忘れ始めた。僕は、その棋譜を覚えていない。ただ、将棋が終わるなり涙があふれ、気が付くと知らない公園にいたことを憶えている。

 ごまかしのきかない事実の前に、僕はうろたえるしかなかった。どろりとしたものとともに、希望までもが流失していった。子供の頃の僕は、いつか体が心に追い付くのではないかとか、そんなことを思っていた。そんなはずはないのだけれど、願っていた。

 局面は、動き出している。中盤の難しいところで形を整えていくのが、僕の持ち味だった。定跡の影響が薄れ、対局者の力が試される場面。それなのに僕には、うっそうと茂る樹海のようなものが見えているばかりだった。これから歩む道どころか、これまでの足跡も見失っていた。それでも、必死に頭を働かせ続けた。考えるのをやめたら、何かが消滅してしまう気がした。今後、何度もこのような状況は訪れるだろう。そのたびに立ち止まらないためにも、今こそ前に進まなければならない。

 三時になり、おやつが出された。シフォンケーキとストロベリーティーだった。甘い香りが、僕の頭を少し柔らかくしてくれるようだった。ケーキを口にすると、気分もちょっと落ち着いた。

 視線を上げると、相手はおやつなどに目もくれず、盤面を睨みつけて読みふけっている。長年女流棋界を引っ張ってきたこの人は、いつだって手を抜かない。時には男性棋戦でも活躍し、世間の目を向けさせることもした。若い世代が台頭してきても、トップはいつだってこの人だ。僕も、尊敬している。この世界にいることが不本意だとしても、この人と真剣勝負ができることはとても嬉しいことだ。

 イチゴの甘ったるい味が、喉元を過ぎたとき。とにかく僕は、決断した。長い長い勝負でも、乗り越えていかなければならない。焦らされるような局面に対して、喜びさえ覚えなければならない。体内から排出される血と引き換えに、僕はこの勝負を肉に変えてみせる。今まで積み上げてきたもの、我慢してきたことを、体を言い訳にして無駄にしたくなんてない。

 駒台から、銀をつまみ上げた。さっき交換したばかり、宿舎に入って一息つけたばかりの銀を、玉の上に置いた。8七銀打ち。相手の突き捨てを咎めに行く、強情でリスクの大きな手だ。自玉は固くなるが、攻めは細くなる。ひたすら相手のパンチを受け続けることを、覚悟しなくてはならない。

 それでも、これが僕の棋風だから。

 川崎の顔が浮かんでいた。彼との差は、こんなところで立ち止まっては埋まりようがない。僕はまだ、あきらめたくない。男として生きられないのならば、一人の棋士として生きたい。そしていつか、一流の人間がいる場所へ……。

 思ったよりも早く、応手が指された。受けたところをこじ開けようとする、剛直な一手だった。予想通りだ。これを乗り越えなければ、次のステージには進めない。僕は、一分と経たないうちにその攻めを真正面から受け止める一手を指した。選択肢はたくさんあったが、流れからは一つしか手はなかった。盤上に赤い川が流れている。敵の兵隊が溺れながらも、こちらの岸に向かって必死に向かってきている。僕は、それを岸辺で撃退する。笑いながらできたらいいけど、泣きそうになりながら。スカートの裾を引きずって、銃を撃つ。

 どれだけ受けても、相手はひるまなかった。もちろんだ。そうやっていくつものタイトルを守ってきたのだ。僕も、ひるまない。相手にも、体にも負けたくない。

「すいません、お茶を」

「はい」

 いつもペットボトルの飲料水を持参しているのだが、体を温めなければならないと思った。そして、蓋を空けるのも面倒だった。少し苦いぐらいが、今はいい。記録係が運んでくれたお茶を、一気に飲み込む。少年は、目を丸くしていた。

「もう一杯」

「あ、はい」

 エネルギーが足りない。出ていく以上に補給しなくちゃ、頭が働かない。二杯目を飲み干すと、黙って三杯目を注いでくれた。

 時間が残り少ない。私は立ち上がり、トイレまで走った。出せるものは全て出し、代えられるものは代え、最後の戦いに向けての準備を整えた。

「もう、やるしかないよ……」

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