第20話
外は雨。強く窓をたたく音。
さっき、沖縄から帰ってきた。
住み慣れたこの街の方が孤独だなんて、それを知ってしまうのも少し辛い。
けれども、孤独になるのを知ってここを選んだ。
テーブルの横に置かれた将棋盤。脚付きの立派なものだ。
もうすぐ、最終局。
盤上には、海が広がっていた。砲弾の飛び交う、青い青い海。
そのニュースを知ったのは、兄弟子からのメールだった。
そして、続けて本人からもメールが来た。
要さんが、結婚する。
それは別に不思議なことではないし、喜ばしいことのはずなのだ。
要さんへの返信の言葉を何度か打って、消した。
棋譜をどこまで並べたのか分からなくなった。気が付くと窓の外が暗くなっていた。ベランダに出て、遠くを見た。星の見えない夜だった。
思い出せない。僕はどういう風に思っていたのだろうか。
実は、なんてことがないのだ。
最初から、何もありはしないのだから。
眠ったのだろうか。
よくわからないままにこの日を迎えた。
着付けをしてもらってる間も、いつも通りにできたような気がする。何を話したかは覚えていないが、おめでとうは言えた気がする。
泣けなくても笑えなくても、この勝負は今日で終わる。今の僕にできることをするしかないと、思っている。
鏡を見ると、少し頬の細くなった、僕が映っていた。目じりも口元も、少し下がっている。
「悔いを残さないようにね」
要さんの言葉に、小さくうなずいた。心が波立たない。いや、心に何の潤いもなかった。悔いを残したことなどないし、悔やまない日はなかった。
対局室に入り、盤の前に正座する。木目の入った、白い盤を見つめる。黒い線が引かれていて、四つの丸い点。海もなければ、絵も描かれていない。
少し経って、先輩が入室してきた。二局目までとは異なる、落ち着いた麻色の着物を着ていた。将棋祭りでも見たことがない、初めて見るもの。
駒袋から解き放たれる駒たち。流れるような華麗な書体。見た目でいえば、僕は「銀将」が特に好きだ。
再びの振り駒で、僕は先手になった。角の右前の歩をつかみ、一つ前に突き出す。指先へとレンズが向けられ、いくつものシャッターの音が聞こえる。
目を閉じた。真っ暗だった。驚くほどに何も浮かばず、緊張感すらなかった。
指し手が進んでいく中で、僕は少しずつ鼓動が遅くなるのを感じていた。盤面と駒台だけが視界の中にある。ふと顔を上げた。対局相手、記録係、立会人、ちゃんといる。風の音、水の流れる音、ふすまの開閉する音、聞こえる。そして盤上に視線を戻すと、世界が木製になる。ああ、これが欲しかったものだ。
世界に、黒い線が走る。前髪だった。きちんとセットしたはずなのに、束になって落ちてきた。かき上げたが、また落ちてきた。
立ち上がり、部屋を出た。トイレに入り、鏡を見ながら髪を整える。これぐらいならば、僕だけでもなんとかできそうだ。
「もう、連絡しないって言ったじゃないですか」
個室の中から、嗚咽の混じった声が聞こえてきた。誰か入っているとは思っていたが、電話をしているようだ。
「……あたし、結婚するんですよ。わかってくれたじゃないですか。……あたし、彼と幸せになるんです」
それは、まぎれもなく要さんの声だった。立ち去らなければと思うのに、体が硬直してしまう。
「……先生とは、もう……」
めまいがした。そしてそれは、決して要さんのせいだけではなかった。
頭の中が重たくなったり、軽くなったりする。
くらくらとして、どろどろとした。
……予定より、三日早かった。
洗面台に手をつき、深く息を吸った。まだ始まったばかりだ、なんともない、と自分に言い聞かせる。けれども、この事態への対処は全くできていなかったのだ。一応、ものは用意してあった……けれども、心構えは。
トイレを出て、控室まで走った。なんだか、色々とよく分からなくなっていた。それでも、今は立ち止れない。
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