第10話
自分の立ち位置が、よく分からない。
僕は今日、タイトルをかけて戦う。今女流棋界には僕より若いタイトルホルダーがいるし、僕よりきれいな子もいっぱいいる。それでも新しい動き自体がなかった世界なので、それなりに注目は集めているようだった。
応援してくれる人もいるし、そうじゃない人もいる。
僕は、僕のためだけに将棋を指せばいいと思っている。でも、後ろめたさは、常に付きまとっている。
心がふわふわしているのがわかる。少し前までは、ここに来ることもちゃんとした目標だったのだ。それなのに、もっと上にたどり着いてしまった人が、僕の心をざわつかせてしまった。
樹に言われて以来、自分の体がとても遠い存在に思えていた。着物を着ているのは、僕とは無関係の体のような気がするのだ。僕がこの体に心を閉ざしているせいで、体も僕のことを認めてくれていないのかもしれない。
旅館の空気は、感じたことのないぐらい澄み渡っていた。心が勝負を求めていないのがわかる。ここで何も考えずゆっくり休めたら、そんなことを考えてしまう。
駒袋からこぼれる、40枚の駒。今日一日、彼らと僕は運命を共にする。これまで何百回と繰り返してきた儀式なのに、違う世界の出来事のように、遠い。
先手の駒が、高く舞い、着地した。カメラのフラッシュが、一瞬世界を消失させる。突かれたのは、飛車先の歩。長年攻める将棋を貫いてきた気概が、そこに込められているように見えた。僕は、すっと角道を開ける歩を突きだした。これは、角換わりになるだろう。女流戦ではなかなか現れない形で、しかも後手が苦しいとされている形。そこに僕は飛び込んでいく。今日の僕は、そうでもしないと目覚める気がしない。
絵が見えない。駒の文字がはっきりと見える。まるで、心までも自分であることを辞めてしまったかのようだった。記憶だけが僕の将棋を規定している。
二人の銀が、五筋で向き合った。相腰掛け銀。将棋の、基本中の基本。そして、深く深く深い、底の知れない古典。
昼食休憩を待たずに、駒がぶつかった。流れが速い。飲み込まれてしまいそうだった。
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