第9話

 テーブルの前に、茶髪の男が座っている。久しぶりの来客だった。

「相変わらずさっぷーけーな部屋だなあ」

「あんたみたいに散らかしてないだけ」

 長い手足、広い肩幅、低くて渋い声。同じ親から生まれながら、僕が欲しいパーツを全部持っている人間。

「で、どうしたの」

「ま、簡単にいえば家出した」

「はあ? 二十歳の男が家出もくそもないでしょ。家探して就職しろ」

「いやいや、あのね。おねーさまを頼ってかわいい弟が来たんですよ。なんかもうちょっと優しい言葉をですね」

「死ぬ気で頑張れ」

 いつきにお茶を出し、僕は赤ワインをグラスに注いだ。

「おい、俺にもくれよ」

「お酒は一人前になってから」

「なんちゅーケチ。いい嫁になるよ」

「わざと言ってるよな、それ」

「まーね」

 右の頬を張った。それほど強くなかったはずだが、案外大きな音が響き渡った。

「いってー。何すんだよ」

「嫁になんて行かない。死んでも行かない」

「わかったよ。ごめんな。もう言わない」

「よし」

 樹ははにかんで、ワインをコップに注いだ。ばかばかしくて何も言えない。

「俺ね、姉ちゃん応援してるんだ。将棋のことは分かんないけどさ、みんなに自慢できるし、ぜってータイトル獲ってほしい」

「突然何」

 弟は、一気に、赤い液体を飲みほした。大きなげっぷをする。

「俺、やっぱイラストの学校行くって言って、叱られた」

「え」

「俺も、やっぱ目指したくてさ。独創力ないって言われたけど、下手なわけじゃないし、やれるだけやってみたくて。けど、許してくんないよな、やっぱ」

「ごめん」

「なんで謝るの」

「僕が家を出たから。我儘言って、将棋の道選んだから、樹にはいてほしいんだよ」

「……かもね。けど、一生ってわけにもいかねーだろ。どうせフリーターだし、いっぺんは挑戦してみたいよ」

「……僕は、賛成だよ」

 樹は、目を閉じて、口笛を吹いた。

「ちょっと感動したよ」

「僕の時も、賛成してくれただろ」

「姉ちゃん、いい女だ」

「またぶつよ」

 樹は鞄の中から、ノートを取り出した。開いて見せたページには、いくつものエアコンの室外機の絵が描かれていた。どれもか細いぐにゃぐにゃした線で、壊れそうなものとして描かれていた。

「気づいたら、描いてる。ほんとはさ、犬とか車とか女の子とか好きだけど、体が勝手に描いてる。俺はこんなの描きたくねーよって不満だけど、体はこれを書きたいんだっていつも不満なのかもしれねーなって、思うことがある」

「……」

「俺、理解はまだしてねーかも。体と心が合わさって姉ちゃんなわけで、なんていうかなー、だから男とか女とか超えて……今の目標達成したら、木田桜として成長できるんじゃないかなって、うん、思うんだよ……」

 そのまま、テーブルを抱くように、樹は眠ってしまった。

「……生意気言うよね。ほんと……」

 心と体。幼いころからの葛藤に、たやすく介入れたくない、という気持ちもある。けれども、すごく感謝していた。僕が男の心を持っていることを知っていて、そのことを全面的に受け入れてくれた人。嫉妬することも多いけれど、樹がいることで僕はとても救われている。

 今日、ここに来てくれたのは、すごいいいタイミングだった。樹の背中に布団をかぶせ、僕は毛布にくるまった。

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