第2章

第8話

 地下鉄が怖かった。

 初めて東京に出てきたとき、僕は盛大に迷った。地下鉄の駅がどこにあるのか分からず、手当たり次第に階段を下りては、また登った。視界があまりにも悪すぎて、そのくせ上下はどこまでも階層があって、僕は目を回した。

 家を決める時、地下鉄に乗らなくてもいい場所を選ぼう、あまりビルの高くないところにしようと思ったら、将棋会館からずいぶん遠い所になってしまった。

 部屋に戻るなり、冷蔵庫の扉を開け、ビールを取り出し、一気に飲んだ。アルコールだけが、食道を刺激する。天井を見上げていた。天井より上は、見えないし、想像できない。

 上着のボタンを、乱暴に外していった。僕を纏う分厚い鎧を、投げ捨てる。要さんが選んでくれた、クリーム色のボアジャケット。好きな人にもらったからなんとか着ていられたけれど、今日はもうだめだ。

 鞄の中から、携帯の振動する音が聴こえてきた。反射で取り出して、出てしまった。

「あ、良かった。まだ電車かと思った」

 声が出なかった。喉が岩のようになってしまっている。

「木田? ひょっとしてまだ乗ってた」

「……い……いや」

 何とか絞り出した声は、とっても高くて、細かった。

「そっか。……

 あのさ、本当は、もっと前に言うべきだったんだけど、俺も今日の対局が控えてたから……。まあ、ほんとはさ、お前、先に挑戦者になっただろ。負けてなるものかってさ、意地になって。もっと早くおめでとうって言いたかったけど」

「……」

「木田?」

「……ありがとう。でも、私なんかまだまだだよ」

「そんなことないって。あと一つ勝てばタイトルじゃん。すごいよ」

「……わっ……僕は……そっちに行きたいんだよ」

「え……何?」

「……ううん。こっちこそおめでとう。タイトル獲れよ!」

「おう!……あっ、はい、すぐ戻りますから……じゃ、また今度ゆっくり話そうぜ」

「わかった」

「うん。おやすみ」

「……おやすみなさい」

 切れた。

 切れそうだった。

 決壊した。

 涙が胃の奥からあふれ出てくるようだった。

「……先じゃねぇよ……全然先じゃねぇよ……」

 ボアジャケットに埋もれて泣いた。いつまでも泣いた。

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