第4話

 中継がいったん終わり、僕は控室に向かった。解説は入れ替わりだが、聞き手は僕一人なので全く検討に加わる暇がなかった。一度は、その中に身を投じておきたかった。

 棋士だけでなくマスコミもいて、いつになく控室は人が多く、熱気に溢れていた。継ぎ盤は全て挑戦者決定戦を検討していた。

「あ、桜ちゃん、お疲れ様」

「本当に疲れますよー」

 まだ本格的な戦いになっていないからか、それほどぴりぴりした空気にはなっていなかった。形勢は互角だと判断されていて、局面が動き出すのは夕食休憩後ではないかと言われている。

「やっぱり川崎君に勝ってほしいでしょ。でもね、おじさんたちは中沢さん応援しちゃうなあ」

「私は別に、どちらに勝ってほしいとかないですよ」

「そっかぁ。じゃあ、やっぱり中沢派の優位は揺るがないね」

「ちょっと、僕たちは川崎組ですからね、川崎君に勝ってもらって、いっぱいおごってもらうんですから」

「川崎君は勝ったらますます真面目になって、飲みになんて行かないんじゃないの」

 ぱっと見には、いつもの風景だった。ただ、誰もがどこか、少し緊張していた。今日、この世界にとって大きな意味のある答えが出てしまうかもしれない。歴史が動く瞬間を、これから目撃するかもしれないのだ。

「あっ」

 誰かが、間抜けな声を出した。見落としや妙手を発見した時に同じような声が出ることがあるけれど、今はまだそんな局面ではない。

 入口に、背の高いひょろりとした男性が立っていた。薄い唇から、小さな声が漏れた。

「どうも」

 控室の空気が、一瞬で圧縮された。皆軽く会釈して、目を逸らした。

 七つあるタイトルのうち、四つを持つ者。天才の国の天才。

「定家さん」

 定家四冠。最大六冠にまで到達し、年間トーナメント全制覇という偉業も達成した。十年間将棋界のトップに君臨し続け、一般人にも最も知られている棋士である。

「そろそろ川崎君が有利になったかと思って来てみたんですが」

 固まっていた空気が、さらに凍りついた。天才は、皆が期待し、そしてかつてはライバルと呼ばれた男が不利になる姿を確認しに来たのだ。

「いやいや、まだこんな局面でね」

「時間の使い方を見せてください」

 四冠は、棋譜のコピーを取り上げた。そして、薄眼で眺め、口元をゆるめた。

「川崎君が、いい時間の使い方をしていますね。調子がいいわけだ」

 四冠はこちらに来ると、僕たちの継ぎ盤の横に腰をおろした。

「中沢さんはあと五分くらい考えて、端歩を突くでしょう。それに対して川崎君は三分ほど考えてじっと金を寄る。ええ、検討にも出ていた? そうでしょう。ここで中沢さんは長考せざるを得ない。攻めるのか攻めさせるのか決めないといけないですから。かつてのあの方ならば迷わず攻めた。けれども今の若手には終盤だけでは勝てませんからね。おそらく飛車を動かすでしょう。そこで川崎君も長考する。ただし、中沢さんよりも短く。その間に二回は席を外すでしょう。そして、玉を寄る。それがいいんですよ、考えたように見せて、玉を寄ってしまう。実は一分でも指せる手を、考えたふりをして指す。それができるようになったから、ここまで来たんですよね」

 淡々としているが、どこか呪術的な力を持った言葉に皆は圧倒されていた。それは秘儀として隠されてもいいもののはずなのに、この人はいつも語りつくしてしまう。それでいて、誰も真似をできないのだ。相手の深層心理をわしづかみにできれば、という前提自体が誰にでもできるわけではないのだ。

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