第3話

 対局以外の主な仕事は、アシスタントだ。

 聞き手をしたり、秒読みをしたり。将棋に詳しいのは当たり前だが、それでも自分からでしゃばることはほとんどできない。棋力でいえば棋譜を取っている奨励会員より弱いのだから、こういう扱いも仕方ないのかもしれない、が。

 今日の仕事は残酷だった。挑戦者決定戦を特別にCSで中継するということで、急きょ人々が集められた。この対局が注目を集めているのは、タイトル戦への挑戦者を決める大事な一番であるから、だけではない。対局者が大ベテラン対新進気鋭の若手だからだ。

 上座、中沢九段。これまでに数々のタイトルを獲得し、現在も順位戦ではA級在籍。背筋がピンと伸びていて、対局姿がとても美しい。

 下座、川崎五段。プロになって三年目の若手で、今年急成長、現在9連勝中。白くて細くて、それでいてしなやかな筋肉がついていて、競馬の騎手のようだとも言われている。

 一部の棋士によって独占されていた感のあるタイトル戦の挑戦の場に登場してきた、過去世代と新世代。今後の将棋界を占うという意味でも、大変な注目を集めることとなった。

 そんな対局に、聞き手として立ち会えることは幸運だ。でも、僕にとってこの対局は、もっともっと大切な意味を持っていて、本当は直視したくないものだった。

 モニターに映し出される二人は、実に堂々と、それでいて柔らかい姿をしている。午前のゆっくりした流れの中であるということもあるけれど、それ以上に心に落ち着きがあるのがうかがえる。中沢九段はともかく、川崎五段がこれほど普段通りの顔をしているのはさすがだと思った。

 彼は、昔からそうだった。いつもいつも、淡々と指して、淡々と勝っていた。

 小学生のころライバルと思っていた人が、今、タイトルに挑戦する手前まで来ている。一方の僕は、別室で聞き手をしている。女流タイトル戦に出ているとはいえ、レベルの違いは明らかだった。今僕と彼の間にある溝は、埋めようとすれば笑われるほどに大きい。

「木田さんもね、今挑戦してるわけだけど、やっぱり同年代の川崎君が頑張ってる姿は励みになるでしょ」

「そうですね。昔から知っていますし、頑張って欲しいです」

 最初は戸惑って何も話せなかったが、今では適当な受け答えをできるようになった。僕はたぶん、聞き手に向いている。ただ、女性らしく振舞わなければならないのはプレッシャーであり、苦痛でもあった。

 対局者の方は、本当に落ち着いている。中沢九段はともかく、川崎五段の堂々とした様子は異常だった。子供の頃はちょこちょこと動く普通の子供だったのに、強くなるのと一緒に順調に大人になっていった。僕よりも、どころじゃない。ほかのどの若手よりもはるか先に行ってしまったかのようだ。

 将棋の方は、よくある最新形になっている。角を早目に交換して、中沢九段が飛車を二筋に振っている。それに対して川崎五段は位を三つ取るおおらかな陣形。どちらがベテランかわからないが、若手の研究を頼るのもベテランらしいといえる。終盤の爆発力が売りの中沢九段にとっては、序盤をどれだけ無難に乗り切るかが大事なのだ。その意味で最新形の将棋は参考資料も多いし、川崎五段への対応もはっきり下調べできたことだろう。

 男性棋戦の将棋は、夕方を過ぎても本格的な戦いにならないことが多い。持ち時間が多いこともあるけれど、一手一手の丁寧さが違う、と感じる。常に最善の手が追及されている緊迫感は、時折僕を震え上がらせる。普段の対局で僕は、何度も悪手を見逃してもらって勝っている。この緊迫感に早く参加しなければならないけれど、いざ身近に感じてみると怖くて仕方がない。

「うーん、これはですね、さっぱりわけがわかりません」

「先生でもそうですか」

 解説が年配の先生になって、空気が少し和んだ。解説は強い人がいいとは限らない。しゃべりがうまいとか、いいネタを持っているとか、そういうことも大事だ。対局者二人のエピソードなどをはさみながら進めていかないと、間が持たないということもある。

「ただ、二人とも本気ですね、ええ。なんでかっていうと、いつもよりペットボトルの本数が多いでしょう。まじめに考えるとのどが渇きますからねぇ」

「先生ものどが渇くんですか」

「ええ、ええ。でもね、もう私はまじめに考えてもすぐ負かされちゃいますからね、そんなに飲み物はいらないんですよ」

 手が進まないと雑談ばかりが進む。しかしそんな時も、僕たちは将棋のことを考えている。対局しているのはたった二人だけれど、プロはみな、一つの将棋と向かい合うことができる。局面だけでなく流れそのものを消化し、血肉にしようとする。僕たちは将棋に飢えていて、なかなか満腹にならない。

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