補足/恣意性

 私は、過去の自分が、私を叱責する声を聞いた。

「ほら云っただろう。あの頃の自分は幸せだったと、思い返す日が来るって」

 ……私の脳裏には、7年前の、秋の市内の風景、まだ狭く暗かった頃の不気味な峠道、それから丸善の地下駐車場で鳩と戯れていた祖父、ホテルでとった豪勢な昼食と母のみに渡された薔薇の花が、蘇っていた。

 後悔ではなかった。あの時ああしていれば良かった、だなんて、死んでも思わない。私は私の為に、あの高校をやめたし、その選択が間違っていたとは思えない。たとえ、あと少しだけ、我慢すれば良かっただけだったとしても、

 私は……彼は、既に限界を迎えていた。

 体温が遠ざかった向に、求めたものがあったんですか。

 声は、夢は、そのことを責めない。けれど、私は、来たるべき私に向かって説教が出来るくらいには、聡明だったらしい。私はそのことを、自らの頭に刻み込まれた記憶から悟る。

「今日この日だって、時間が経てば、美化されて思い出になる筈だ。その時、お前はこう思うだろう。あの頃は良かった。あの時は幸せだった、ってな」

 未だ18を迎えてすらいない少年が、喋る。23の女は、何も、云い返せない。17の少年の声、言葉は、時空を超えて私の夢へと浸透するのに、23の女には、云い返す能力が備わっていないらしい。

「大人になったからだって? そんなのは言い訳だ。諦めた人間のやることだ」

 私は、少年の言葉が正しいことを知っている。

 今ですら、こうしてものしている今、2020年8月15日その朝ですら、私はこの先の私に羨まれ、項垂れられることとなるだろう。私は、こう云う。

「ほら、云ったじゃないか。あの頃は何でも出来たんだ。いわんや、今のお前はどうだ? 何も出来ない。何も出来なくなった。過去に負い目がある。私は不幸だ。って、思い込んでいるんじゃないんだろうな。でもな、今の私だって、私は幸せだった、あの頃は自由だった! なんて思って、かなしむことは出来るんだよ。時間の入れ子構造だ。

 でも、お前は、ほんとうに、どんどんと不幸になっていった人間なのかい?」

 不幸になっていくとして、食い止めることが出来なかったのは、それは……、それは、間違いだ。あの頃の私には、17の少年には、23の女になる可能性が、そしてそれ以外の可能性があった。そうやって、可能性を、無責任に、与えられていたんだ。

 不幸になったんじゃない。大人になったんだ。

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