破滅

破滅 -喪失

 話は遡る。2012年4月。私は、とある自称進学校に入学した。


 将来を嘱望されてのことだった。少なくとも私は、当時の私がそうであったと信じている。いや然し、ならば私は、もっと有効な手段を採るべきだったのだ。当時の私の学力からして、不可能はなかった。

 あったとするならば、私のそれ以外の部分、例えば、精神の部分に、不可能はあったのだ。

 私は群青を見上げ、孤独を知った。犠牲を知った。前を見ながら後ろを考える、とは、私の、当時の私にとっても愛読書だったとある冒険小説からの引用だが、私は空を見上げながら、地を知ったのだ。少なくともそのつもりだったし、だからこそ、その前々月、午後、良く晴れた坂道を自転車で下りながら、盛大な舌打ちをしたのだった。あの日の抱擁の気持ち悪さは、どうあっても忘れることはできないであろう。


 私は、普通になりたかった。


 多くの、とある特定の種類の少年がそうであるように、私は、自らを普通にしたいと願った。普通であることは楽しいものだ。愚かにも、そう信じていた。私は、あまりにも、ものを知らなかった。


 結果、私は墜落した。


 同年8月。I was in London.

 I could NOT become ……。

 よそう。面白くない。私らしくもないし、私にできる表現ではない。私は、外への扉を閉ざした。衝撃的な出会いがあったが、それは偽物に過ぎなかった。私は、常に、私の予想の外を墜落していた。ピーチティーとリンゴとパンの味は、まだ憶えているような気がする。一応、念のために付け加えておくと、たとえ母国語以外を話せなくとも、日常レベルでは、それほど意思疎通には困らないという、たいへんつまらない事実がある。適当に過ごしていれば、少なくともティーンであるという良識的保護下において、意思疎通には困らなかった。

 然し、私にとって、あの夕陽は、あの町で見たあの景色、日本へ帰る前日に見たあの景色は、それからの当時の私を決定付けるに足る衝撃を備えていたらしかった。それはなんでもない、あまりひとのいないロンドン郊外の駅前の町並であったのだけれど、これは、哀愁のようなものだった。

 向こう側に、私は死んできたのかもしれない。詩的な表現をするならば。


 たった4ヶ月。いや、それよりももっと早く、私は壊れることができた。不可逆的に、完膚なきまでに。限度をしらない愚か者は、普通とは何かを知らなかった。どこまでを通り過ぎれば良いのかわからなかったし、それは、例えば勉強のサボり方とか、友だちとの町の歩き方とか、そういった、高校生にとってひじょうに危ういバランスで維持されているにも関わらず意識しないであろう生活にとって重要な水面下におけるバランス感覚が、当時の私には備わっていなかったのだ。


 壊れた私は、徒歩の威力を知った。歩けば、必ず、目的地に行き着く。歩けさえすれば。


 取り返しがつかなくとも、私は、将来を無価値と断じていた。恐らくは、そうだったはずだ。今となっては、推測することしかできない。私と、その当時の私との間には、超えられない空白が、絶対的な断絶となって、どこまでも横たわっている。


 そう、私が壊れるには、たったの4ヶ月しか要らなかったのだ。


 そこから先は順当だった。あらゆるものを失うことが決定付けられた坂道を転がり落ちるように。それは既に墜落ではなく、転落であった。自由落下ではなく、用意された落下である。――いや、両者に差異はないか。主体がどちらか、ということは、この際、重要ではないだろう。落下した、という結果が、重要なのだ。

 運命とは皮肉なもので、私はそれに従った。私の意思や能力とは関係なしに、時間と他者の意思が決定付けた私の運命に、私は従いながら、それでもそこにいるものは私だった。私は運命にとっての主体であって、他者はあくまで客体であった。運命とは、切り開くものだ。私の運命は、私のものだ。生憎と、私は、私の望まない期待に応えるだけの精神を、有していない。生憎と。


 当時の私は、現在の私にとって、主体性を失った客体に過ぎない。時間という絶対のベクトルを因とする観測ではなくて、これは即ち想起と呼ばれる行為であろうが、現在の私が当時の私を観測する場合、そこに存在するべき現在と過去との同一性が、失われているのである。


 なぜか。

 2013年、夏から冬にかけて。

 私は、記憶を喪った。

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