第56話 円とチョコレート

「円。こんなところで何してるんだよ」


 いくつもの大きな雲が気持ちよさそうに泳ぐ朝。

 円は宿屋の前でしゃがみ込んでボーっと下を向いていた。

 俺が円に話しかけると、彼女は俯いたまま喋る。


「虫」

「……虫?」

「虫、見てた」


 俺もしゃがんで円が見ているものを視認してみると、そこには蟻が軍隊をなして動いていた。

 円の足元にはミルクチョコレートが落ちており、それに群がっているようだ。


「…………」

「…………」


 何も言うでもなく、何をするでもなく、円はただただ蟻を観測するのみ。

 これが面白いのだろうか?

 人の趣味に口を出すつもりも否定するつもりもないが……これは俺には理解できそうもない。


 ふと円はこちらに顔を向け、大きな瞳で俺を覗き込んできた。

 由乃とはまた雰囲気の違う可愛さを持つその顔に、一瞬ドキッとする。

 

「食べる?」


 円は手に持っていたチョコレートをこちらに差し出してくる。


「でも、俺が貰ったら円の分が無くなるんじゅないのか?」

「チョコレートならまだまだある」


 俺に食べかけのチョコレートを渡すと、彼女は《ホルダー》からチョコレートのカードを引き出し、現物を顕在させる。

 俺は立ち上がり、空を見上げながらチョコレートに齧りついた。

 甘い。そして美味い。

 ちなみに、チョコレートのレア度はRらしい。

 もちろん、Nしか手に入れられない俺は入手したことなど一度もありません。


「泥棒!」

「え?」


 急に聞こえてきた声の方を振り向くと、よれよれの薄汚い服を着たおじさんが走って逃げている姿が目に入る。

 後ろには叫ぶ女性。

 どうやら食材関係のカードを窃盗したようだ。


 おじさんはこちら側に向かって走って来ている。

 仕方ない。俺が対処してやろう。

 そう思っていたが、円がチョコレートを食べながら、素早い動きで瞬時におじさんの前まで移動し、彼の足を引っ掛ける。

 バタンと倒れたおじさんを見下ろしながら、カリッとチョコを割る円。


「盗みはダメ」

「そ、そんなことは分かってるよ! だけど、もう今日食べて行くだけのカードが俺にはねえんだよ」

「…………」


 円はおじさんの持っているカードを奪い、代わりにチョコレートを手渡す。

 おじさんは一瞬キョトンとするが、チョコを凝視し、ガリガリと食べ始めた。


「これ」

「あ、ありがとね」

「あと、これも」


 円は取り戻したカードと、そして《ホルダー》から何枚かのカードを走ってきた女性に手渡す。

 呆気に取られる女性に、俺は付け加える。


「あー、それで許してやってくれってことだと思う」

「あ、ああ……」

「おじさんにはしっかり言い聞かせておくから、お願いします」


 円の代わりに俺が頭を下げる。


「まぁ、これだけカード貰えるならいいけどさ」


 女性はホクホク顔で踵を返し、店へと戻っていく。

 

「もう盗んじゃダメ」

「あ、ありがとう……」


 シュンとするおじさんにも円は何枚かのカードを手渡す。

 俺も大量に余っているカードをおじさんにあげる。

 するとおじさんはおいおいと泣き出した。


「ありがとう。本当にありがとう」

「うん」


 涙を流すおじさんを円は真顔に近い表情で見下ろしている。

 見た目も声も冷たい印象を受けるけど、円は優しい女の子なんだな。

 可愛いし、もう少し明るかったら、もっとモテたであろう。

 が、正直な話、冷たい感じもいい。

 と俺は思う。


「おはよーっす」

「勇太、おはよう」

「おはよう」


 元気に宿屋を出て来る勇太。

 涙を流すおじさんの前でまたチョコレートを取り出し食べ始める円。


「え? 何かあったのか? 何で泣いてるおじさんの前で円チョコレート食べてんの?」

「円が彼を助けただけだよ」

「そっか。良い奴だな。司も円も」

「俺は、別に……」


 ニカッと笑い、勇太は俺の肩に腕を回してきた。


「お前は良い奴だ! 俺は知ってんだぜ」


 ドキンと心臓が驚きに跳ねる。

 まさか……俺が強いのがバレてるのか?

 俺は息を飲み、勇太の言葉に耳を傾ける。


「司がおばあさんに電車の席譲ってたの、見たことあるんだぜ!」

「せ、席?」

「ああ。見てる人はいつも見てるもんだぜ」


 親指を立てる勇太に、俺は内心ホッとし肩を落とす。

 何だよ、電車の話かよ。

 ってか、そんなの見られてたのかよ。ちょっと恥ずかしいな。


 おじさんが泣き止むまで待っていると、いいタイミングで由乃と磯さんも宿屋から出て来て、また勇太と同じことを聞いてくる。

 今度は勇太が短く説明すると、由乃が円の頭をなでなでし始めた。


「なあなあ、武闘会っての見に行かね?」

「おう! 葡萄会、行こうぜ!」

「果物じゃなくて戦いね。折角だし行こうか」


 勇太の提案に俺たちは武闘会の見学をしに闘技場の方へ向かう。

 闘技場は白い神殿のような建物で、入り口の門扉の左右には戦士の銅像が立っており、威圧感を覚える。

 門をくぐると、そこにはすでに大勢の人が集まっていた。

 戦士然とした姿の者ばかりで、勇ましい顔つきをしている。

 実力はともまく、皆が放つその熱気に俺はゴクリと唾を飲み込んだ。

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