第60話 第九章 平定されたはずの地

 白肩津へとたどり着くと、狭野尊は何故か神妙な面持ちで俯いていた。

「狭野尊大先生、先程はお見事でございました。」

 きれいさっぱりと声を発しながら狭野尊へと近づいたが、「ああ、ありがとう…。」と、やはり表情を濁しながらこちらへと顔を向けず言葉を発する狭野尊の姿。

 死闘の戦いの後…。

 ふと視線を向けると、宵闇迫る水面がふと奇妙に思え、吉備津彦は何故か全身に寒気が走った。

 それはきっと、先程の死闘を繰り広げたこの戦場がもたらしている残響であろうと、『我ながら死線を越えた戦いを繰り広げたもんだ』と思い返しながら、視線を生駒山脈の方へと向けた。

「吉備津彦!!後、どうすればよいのじゃ?」

「ああ…、大先生の指示があるまで、ちょっと待っておれ。」

 狭野尊の方を再度見たが、やはりいつものような調子を感じ取れない。しかしながら吉備津彦はその理由を分かっていた。

 何故なら、ここは狭野尊大先生の大兄、五瀬命が、嘗ての宿敵である長臑彦に矢攻めの策に合い、絶命の原因に合った現場。流石の狭野尊も肩を落とすに違いない場所であると吉備津彦は思った。

「この白肩津は、大先生にとって、深い思い入れがございましょう…。ここからは私達だけで先を進める事に致しますが故、狭野尊大先生はこの地で五瀬命の思い出を十二分に痛み入りせしめて下さいませ…。」

「い、いや、吉備津彦よ…。」

「そうよ、狭野…。ここは吉備津彦の言葉に甘えればいいわ。私達は何とかなるから。ね…?」

 吉備津彦に言い返そうとした矢先、いつの間にかこの地へとたどり着いていた天鈿女の顔を見て、狭野尊は一瞬身体を硬直させてしまった。本人は全く覚えていない様子だが、あんな後の訳であるからして、致し方がない話である。

 五瀬命は全くもって別の土地で埋葬されているという話などこの場の空気と、今の心情で言いだせる訳もない。

「ああ、分かった。今はそうさせてもらう事にしようかな…。お前ら、これから先、俺がいなくても本当に大丈夫なのだな…?」

 狭野尊は、瞳に赤い光を宿らせながら力強く言葉を発した。

「大先生、私達ならやっていけますっ!!」と、両拳を力強く握らせながら真剣な面持ちで応じる吉備津彦。

「狭野、心配しないで。何とか私達でやっていくから…。」と、涙を浮かべながら応える天鈿女。

 岳は特に何も思う事なく相槌を打っていた。

 狭野尊はその一同の姿を見て再び万弁の笑みを浮かべて、誇らしく右手を力強く前に広げて声を発した。

「相分かったっ!!汝らには幾多数多困難が待ち受けているであろうっ!これから我が身に助けを請うなどできぬっ!!したらばこれにてご免仕るぞっ!」

 そう言い放ち、狭野尊は風が過ぎ去るようにその場から瞬時消え去っていった。

「何よ…。ぶっきらぼうに…。言いたい事だけ…。」

 天鈿女がそう呟いた傍から北風が吹きすさぶ。

「あ…。」

 何か分からぬ美しい花弁が風に舞い、狭野尊の去った一行の間を駆け巡り、空に浮かぶ月へと舞い上がっていった。

 風に靡く髪が何かを余韻するように…。



 人と神の戦い。そして、岳の初陣。次回は遂に大和へと場面を移す事となった岳一行。

 思えば遠くへ来たもんだ…。

 余りにも言葉になく、心中お察し申し上げ奉り候…。

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