第61話 第十章 生駒と共に生きる者達

 宵闇に濡れ、辺り一面は漆黒の闇に包まれていた。風はすっかり薙ぎ、水面に映る月の光が何とも悲壮感を漂わせている。

 先程、狭野尊と別れ、又もや三方となった岳一行は、今宵このまま山道を進む事などできないという話になり、白肩津が誇る最大の宿、『草香江荘』で、戦の傷を癒すべく宿泊する事となった。

 実はというと、この話は珍しく天鈿女が言い始めた話であった。

 熱帯夜であろうと、血の凍るような夜であろうとも、いつもなら野宿するようにと言い放つ天鈿女であったが、これまでずっと狭野尊といられた事が大層嬉しかったのか、はたまた更にいい事があったのか…。兎にも角にも気持ちが悪い程の上機嫌な天鈿女。

 宿の受け付けさえ、自ら率先して引き受ける有様であった。

「き、吉備津彦…。あめたん、何か先程から妙ではないか…?」

 受け付けで対応している天鈿女の背姿を眺めながら岳は吉備津彦へとひそひそ声で話しかけた。

「そうなのだ…。まあ、余り気にしても仕方がなかろう…。しかしながら今宵は久々、旨い菜と酒。そして暖かい床にありつけそうだ。このままそっとしておこうではないか。」

「そうだな…。機嫌を損ねさせても困るから、何も言わないでおこう…。」

 漢達の暗いやりとりはここで幕を閉じた。

 そんな事よりもここに来て初めて、深い事実が岳の胸の中で真実味を帯び始めていた。

 それはというと、天鈿女のノリのような一声で吉備国から過酷な旅が始まり、様々な民と出逢い、そして苦難を乗り越えて、ここ白肩津へ遠路遥々たどり着く事ができた。そして明日、切望した大和入りを果たす前夜なのだから…。

「天様、御三方―。お部屋へとご案内いたしますーっ!!」

 見るからに気立ての良さそうな女将の声が上がり、そのまま部屋へと案内されていった。

 一しきり部屋の説明が終わり、「では、ごゆるりと…。」と、丁寧に言葉を残して女将は部屋を後にした。

 岳は部屋中を見渡してみると、閑静な中庭が一望できるという、何とも優雅な作りで、それよりも部屋がやけに広い。播磨の地で自分が呪われ、急遽宿泊せざるを得なくなった描写があった刻は、確かこのような雅やかな部屋ではなかったと記憶する。

 天鈿女の態度といい、この部屋といい、逆に今後の心配をしてしまう程である。

 その心情はどうやら吉備津彦も同じであるらしく、小刻みに身体を震わせながら天鈿女を見尽くしていた。その震えは嬉しさが故か、はたまた悲しさか恐怖であるのかは分からないのだが…。

 そんな漢二人の態度に気づいた天鈿女は「ほっ」と息をつき、優しい笑顔を浮かばせて言葉を発し始めた。

「でいだらぼっちとの戦い、お疲れ様。初めはどうなる事かと思ったけど、ここまでやれるようになってるとは正直思わなかった…。アンタ達、グッジョブよっ!!」

 これまで、このような労いの言葉などこの女神から発された事などなかった訳で、どんな顔で、そしてどのような反応を返せばいいのか分からなかった漢二人(特に吉備津彦)。

 天鈿女は笑顔絶やさぬまま、優しい口調で言葉を続けた。

「でね、今宵はいいお湯に浸かって、美味しい物食べて…。今回は狭野も一緒にいたし、ある程度までなら許されると思うから、この一行でぱーっと天孫経費使っちゃいましょうっ!! 」

 この言葉で漸く天鈿女から労われている事を理解して、安堵の余り深い溜息を二人同時につかせ強張らせた表情を緩ませる事ができた。

「あ、あめたん…。そうならそうと、この宿にたどり着いた刻に言って欲しかったぞ…。あー、びっくりした…。」と、単純に驚いている岳。

「そうですぞ、天鈿女様…。もしかすると裏があるのではないかと妙な勘繰りをしてしまう所だったではないですか…。」と、恐怖に怯えていた吉備津彦。

 交互から放たれた言葉にいつもなら激昂させるはずの天鈿女であったが、狭野尊とずっと一緒にいられた嬉しさと、何故か暖かい感触の残る唇の感覚から、そのような事を気にしている心の余裕などある意味なかった。

「たまにはこんな事あってもいいかなって思っただけよ。最初で最後の私と夜を共にするの…。あ、でも変な気起こさないでね、いいわねっ、アンタ達!!!」

「御意っっっ!!!」

 天鈿女に対し、拳を片方の掌手で握り、片膝をつかせながら高らかな声で相槌した。

今宵、思うがまま贅沢三昧を繰り広げ、三方はそれぞれの夢の中へと誘われた。

 天鈿女は狭野尊との続きを夢に見ているのか、終始絶えない笑顔だった。吉備津彦はというと、眠っているはずが目を見開かせ、何かを持っているかのような手つきで空を切っていた。ここでも何者かと戦っている夢をみているのだろう。「ぐはっ」と呻き声を上げたと同時に、そして何も動かなくなった。どうやら絶命したらしい。(夢の中で)

 一方岳は、この旅が始まって以来何故か初となる弥生の夢を見ていた。

 ここはどこであるかは分からないのだが、高早瀬の宮殿とは比べ物にならないほどの高貴な雰囲気が立ち込めていた。

 その奥で弥生の姿を見たのだった。

 それは、吉備国で共に生業をしている際に召していたボロ姿ではなく、煌びやかな衣を纏い、何故か玉座へと腰掛けている姿…。

 今すぐ弥生の名を叫びたいが、どうにもこうにも身体が動かず、只々その姿を見つめ尽くすだけ。そんな夢である。

 岳は全身汗に塗れながら夜通し魘され続けていた。

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