第59話 第九章 平定されたはずの地
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「しかし…。この俺を戒める封印術がまだ存在していたとはな…。大国主よ、やるではないか…。」
狭野尊は、周りの状況に焦る様子を浮かべる訳でもなく、大国主が放った呪縛に相変わらず幽閉されながら瞳を閉じていた。
「狭野っ!!何呑気に日和見かましちゃってんのよっ!!このままだと岳も吉備津彦も死んじゃうわっ!!それでね、私も狭野もあれに押し潰されて、このままだと二神で心中したんだって大和中の噂になっちゃうのっ!!それでいいのっ!?狭野っ!!!」
焦りからなのか、はたまたそれが願望なのか…。天鈿女は、只々訳の分からない妄想を叫びながら地べたにしゃがみ尽くすしかできなかった。
その声も姿も狭野尊には届いておらず、珍しく額に大汗を浮かべながらこの結界を解く鍵を頭脳の中から探し出していた。
『全ての祝詞が通じなかった今、これを解く鍵があるとすれば、最早、大国主だけが知る暗号という事になる。という事は、奴の国、『出雲』に纏わる神話に暗示があるという事なのか…?しかしながら、民にさえ広がる言葉を選ぶなど安易すぎて考えらない…。』
「きゃああああああっ!!!!!」
必死に思いあぐねているすぐ側で、天鈿女の金切り声が上がった。それにふと、視線を浮かべてみると、遠い上空にて藁人形のように微動打ともせず吹き飛ばされる吉備津彦の姿が見えた。そして、只の山の精霊であるはずのでいだらぼっちが異常とも思えるほど狂い笑う姿…。
『でいだらは自らの感情を持ち合わせていないはず…。だが、目の前でこう感情を露わにするでいだらが存在する。はて、面妖な…。』
狭野尊はそこで一閃の光を見たような気がした。
『そもそも、大国主は邪神としてこのでいだらを復活させたと言った。という事は、奴自身の感情がこやつの心の中を支配していると仮定したならば…。』
そう考えている側で天鈿女と岳のやり取りする声が聞こえてきた。すると、岳が水面を走り、でいだらぼっちへと向かっていく背姿が見えた。
「狭野っ!!岳行っちゃったわっ!!というより、この櫂でできるだけ遠くへ逃げろって言われたけど、こんなのどう扱っていいか分からないわっ!!!」
まるで取り乱す子供のように大粒の涙を流しながら狭野尊へと叫ぶように訴えた。
「おい、天鈿女…。お前、自分が神だという事を忘れてないか…?」
置かれている状況を真摯に受け取りながらも、冷静沈着に対応できる狭野尊は流石と言えよう。その声に、天鈿女はすぐさま冷静な思考が蘇った。
「あ、そか…。こんなもの使わなくても船ごと浮かせりゃいいのね…。狭野、どこまで行けばいい?」
「とりあえず、この船に乗った所まで戻してもらおうか。できるな?天鈿女よ…。」
天鈿女は、無理矢理笑顔を浮かばせて一つだけ頷いて見せた。そして、片手で印を組むと、船は力強く湖上へと浮かび、白鳥船へと乗り込んだ場所まで進んでいった。
無理矢理作った笑顔は、これができるかどうか自信がないという事ではなく、只々、彼らを戦地に残す事に微かな背徳感を抱いているからなのだろうと狭野尊には分かっていた。
岸付近の乗り場へとたどり着くと、天鈿女は出発した刻と同じように船を着水させた。そして、でいだらぼっちが聳え立つ方へと視線を向けると、そこにはまるで弾幕に遮られているかのような水飛沫が辺り一面に広がり、戦況の激しさ物語っていた。…が、それを確認すると、狭野尊からにやりと不敵な笑みが零れていた。
「狭野?どうしたの…?」
「否、あの二人はもう何の心配もないぞ…。」
その言葉に天鈿女の表情は戦々恐々と変わり果てた。
「えっ!?あんだけ激しい事になってんのよっ!?何でそんな事言えんのよっ!!!」
「して、天鈿女よ…。先程、大国主と話していた内容を俺に教えてくれ。」
叫び声に対して、自信に満ち溢れた笑顔のまま言葉を続ける狭野尊を見ていると、妙な安心感が天鈿女の中に宿った。
「えっと…、何言ってたんだっけ、あのおっさん…。確か、天照姉さんの犯した過ちがどうとか…、心の底から悔やめだとか…。」
「それは俺に言った言葉だっ!その後の言葉を知りたいんだっ!!」
「えええっ!!ちょっと待ってっ!!思い返すからぁぁぁっ!!」
天鈿女は瞳を閉じて、両手をこめかみから頬へとぴたりと合わせて、地面へと這いつくばる小岩のようにその場へとしゃがみ込んだ。
「岳と吉備津彦が奴を絶命させるには刻を要するだろう。天鈿女よ、ゆっくりと思い返して明確な記憶を俺に話せ…。」
狭野尊は天鈿女の背中に柔らかな視線を浮かべながら微笑んだ。
「狭野…、ちょっと…。」
蹲る天鈿女から、まるで蚊が飛ぶような細い声が聞こえてきた。
「何だ?天鈿女よ…。」
「少しだけ、私が私じゃなくなるわ…。そんな私の姿を見ても…、嫌いにならないでね…?」
狭野尊は全てを分かっているかのように、そんな天鈿女に対して高らかな笑い声を上げた。
「はーっはっはっはっ!!お前の演劇能力の高さは知っているっ!それが、この結界を解く鍵となるのだから遠慮なく示せっ!!」
「狭野、…ならね?ちょっとだけ、私の演技に応えてくれなくちゃ…だめよ?」
天鈿女は横目で狭野尊を睨むように見上げながら呟いた。その瞳に爛々とした光はなかった。いつもの演劇前に見せる表情とは少し違う雰囲気に、どこか違和感を覚えざるを得なかった。
「お、おう…。俺は、どうすればいいのだ?」
「心…、乱さず…、いつもの…、アンタのように…。」
天鈿女は微笑を浮かべながら苦しそうにそう呟くと、辺り一面の空気が凍るように張りつめた。蒼く冷たい空間と、止まったと思うほどの重い刻の流れ。遠くに展開していた戦況さえも今は止まって見えた。
「ほ、ほう…。」
この能力は天鈿女独自の能力であり、兼ね備える事はできないと流石の狭野尊も感じながらこの刻に身を置いていた。
先程から立ち込める蒼い雰囲気は次第に黄の色に変わり始めたと同時に、立ち上がった刻には既に天鈿女のそれではなく、全く別の者の表情に変わっていた。
それは、大和の森のように気高く、穏やかな海のように優しい雰囲気を漂わせ、狭野尊の前に只ならぬ空気を放ちながら立ちはだかっていた。
天鈿女である者の口が開く。
「我が名は、大物主…。出雲国を創り、今や大和国を見護る山へと鎮座する者也。」
「あれ?天鈿女よ…?話が…。」
これには流石の狭野尊も困窮した。そして、再び自身の思考の世界へ…。
『大物主…。確かこの名は、大国主の和御霊…。俺は言葉を思い出せと言っただけなのだが…。もしや、天鈿女よ…。』
狭野尊は片膝を地に着かせ、声を発した。
「我が名は神大和磐余彦也。これはこれは、大物主命様がこの地に降臨して頂くなど、どう申してよいのか…。」
「神大和磐余彦、表を上げよ。汝、何か私に聞きたい事があるらしいではないか。苦しゅうないぞ?何なりと申せ。」
天鈿女とは既に別であるような気高い雰囲気を醸し出すこの大神から、大国主が発したと思われる言葉を聞きだすなどと、狭野尊は躊躇していた。
「いや、どこから話をしていいのやら…。その理さえも見出せませぬ…。」
大物主はそっと微笑んだ。
「今、汝を戒めている結界は私自身が施した物と見受ける…。それを解く鍵は、私自身に秘められている。そうよんだ汝は、この私を降臨させた…。そうではないのか?」
話がずれている…。が、これはこれで良きかなと狭野尊は思った。
「そ、そうでございますっ!大物主命様に助けを請うつもりはございませぬが、只、大国主命様の辛酸を舐めている殊更を理解しとう御座いまして、降臨して頂いた故に…。」
緑色に幽閉されたまま、片膝をつかせ、蹲る狭野尊を優雅に見下ろしながら、大物主は優しい視線を横目に這わした。
「神大和磐余彦…、否、狭野って呼んでいい?」
「はい、何なりと申し付け遊ばせ…。」
顔を俯かせながらそう言葉を発したのだったが、もしかすると天鈿女の感情も混じっているのではないかと感じざるを得なかった。が、ここはぐっと感情を堪え、刻に流される覚悟を決めた狭野尊。
「狭野、汝の祖、天照に伝えてほしい話があるの…。」
「はっ…。高天原に行く際には必ずお伝えします故、何なりと…。」
最早、大物主と化している天鈿女に対し、そう答える事しかできなかった。
「あのね、狭野。私は国を奪った貴方の祖が憎い。そう、憎いの…。でも、歴史上仕方がない事だとは十分感じているのよ…。分かってる、分かっているけど…。」
大物主は憂いを帯びた表情を浮かべながら、明後日の方角へと視線をそっと浮かばせた。
「私は、大国主の和御霊。そう…、貴方の祖を認めざるを得ない御霊なの。でもね、貴方の祖が派遣した者に、私達の息子の腕をもぎ取られたのよ?戦いは私達の息子が挑んだらしいけどあんまりじゃない?」
「ええ…、まあ…、うちの建御雷がやらかした話ですな…。その節は申し訳ございませんでした…。」
狭野尊は透かさず深々と頭を垂れた。(何故…)
「でしょ?貴方みたいな人気神ならこの気持ち分かるはずよ!?でね、その後なんて大変な話になっちゃったのよ!嫁には逃げられるしさ、自身の息子の罠に嵌っちゃって絶命した後に、何故か復活させられちゃうしさ!!ホント、貴方らが来てから、出雲は大変な憂いを帯びちゃったのよっ!分かるっ!?」
「ええ…、はい…。何となく…。」
只々、大物主(大国主)の愚痴に付き合わされている狭野尊は、その言葉の裏側に潜むでいだらぼっちの心情を拾っていた。
『なるほど…、大国主は我が天孫に組み込まれつつも、実は恨み辛みを未だ抱えて存在していると…。それなら、でいだらのあの狂気も真実味が帯びる。という事は、この結界を解く鍵はそういう事になってくるのか…?』
「狭野…、それは違う。私達はそこまで卑屈ではない…。」
その言葉に狭野尊は驚愕した。自分の行動を封じるだけではなく、まさか心の中さえ読まれてしまうとは、やはり、この神は自分の能力を凌駕していると思わざるを得なかったからだ。
神、対、神であるのに対し、これまでほとんど負けを味わった事のなかった狭野尊にとって、敗北感に似た感情が初めて生まれた瞬間であった。
「では、大物主命様…。大国主命様は、何を申し上げたかったのでしょうか…?」
狭野尊のその言葉に、大物主は優しい笑顔を浮かべて呟いた。
「あのね、天孫の考えも、私達、出雲の者もそう…。そして、世界の民達もそう…。考えは皆一緒なの。皆が皆幸せに、そして安寧に暮らしていきたいの。貴方達の社訓にだってあるでしょ?」
「あっ…。」
大物主はそう呟くと、長くしなやかな腕を(実質、天鈿女の身体だが)激しく揺さぶらせた。そして、一言一言、言葉を区切りながら印を組む。
『哀・羅部・舞…、出雲…。』
そう大物主が呟くと、狭野尊を幽閉している結界が眩しい緑の光を輝かし始めた。しかしながら、まだ結界は消えようとしない。そして、大物主の言動は続く。
『愛・等武・米…、家族っ!!!!』
そう叫びながら印を組ました掌を合唱させながらこちらへと突き付けた。すると、緑の光に広がった結界は輝きながら崩壊していく…。
その有様を狭野尊は呆然と天を仰ぎながら見尽くしていた。
『そうだ、そうなのだ…。只、この純粋な気持ちを忘れてはならなかった。家族愛と、世界平和…。それを失って、この芦原中国を完全に平定などできる訳ないではないか。』
そう思いながらも、この鍵を解く言葉は天孫語である事を狭野尊は見逃すはずがなく、結局大国主という者は流行の最先端に敏感なのだと感じて、狭野尊は微笑んだ。
「あのね、狭野。天照やニニギに伝えといて…。貴方達のやってる事に全く愛が感じられない…ってね。じゃあね、狭野。今は天鈿女の身体借りてるから、こんな事もできるの!!」
既に結界が崩壊した狭野尊の側に、大物主が近づいてきた。そして、顔と顔がすれすれの所まで近づくと、大物主は呟いた。
「いつもは大国主の姿だからおっさんそのものなの。でもね、今は天鈿女の身体、借りてるから素直に言える話があるの…。」
唇と唇が触れ合う所まで近づくと、大物主は一瞬身体を振るわせながら笑った。
「私、幾千年の昔から貴方の事が好きだった…。」
そして、大物主(天鈿女)は狭野尊と口づけた。
いきなりの描写で、狭野尊は瞳を閉じる事なく、大物主の施しを受けていた。驚愕…。否、ここはびっくりしたと書いた方が自然な流れだと思った著者の私…。
「やっと、伝えられた…。これで最早感無量よっ!!もう、汝と相見える事などないだろうっ!さらば、狭野尊、神大和磐余彦よ!!!」
額に右手の二本指を当て、大物主はそっと微笑んだ瞬間、その表情は消え、そして、天鈿女の身体はその場へと崩れ落ちた。
口づけの温もりは天鈿女のものであろうが、大物主が施したという事は間違いない。多分、天鈿女はこの事も今後覚えていないのだろう…。
やりきれない気持ちと、隠しきれない自分に苛立つばかりの刻が、狭野尊の冷静さを失わせていた。
ふと目の前に視線を向けると、でいだらぼっちが絶命の雄叫びを上げながら暴れ散らしていた。
「ええい、我、行かんっ!!」
先程の温もりと言葉を掻き消すかのように、狭野尊は剣を剥ぎ、でいだらぼっちが暴れるその場所へと飛び込んでいった。
刃を振り、祝詞を唱えながら飛ぶ我が身。
瞬間、白い闇に包まれた…。
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