第58話 第九章 平定されたはずの地

「おい、岳。今は俺達だけでこの大きいのと戦わねばならぬ事となった…。」

「分かってるぞ、吉備津彦…。で、私はどう動けばいいのじゃ?」

 途方に暮れるほど馬鹿でかいでいだらぼっちの姿を睨みながら、吉備津彦は目まぐるしく思考を凝らしていた。

「まずは儂がでいだらぼっちを左側に陽動させる。とにかくお前は眼を狙い、奴の視界を奪うのだっ!」

 吉備津彦はこう言ったが、生きてきた中で初の戦いを余儀なくさせられる事となった岳には、どうにもこうにも成す術などある訳がない。

「目を狙えと言われてもっ!この山のようにでかい怪物にどうやって登れというのじゃっ!!訳が分からぬわっ!!」

 岳の取り乱しているような叫び声に対して、吉備津彦は優しい口調で返した。

「誰もに初戦はある。取り乱す気持ちもよく分かるぞ…。今は儂の動きを眼で追い、それを参考に動け。何、奴は見ての通り、一つ目だ。こればかりは、幸いしたな。では、行くぞっ!!!」

「き、吉備津彦っ!!!!」

 岳が叫ぶや否や、既に吉備津彦の姿はここにはなく、気がつけば北の河で体得した立ち泳ぎで向かっていた。それは、先程の河で見せた泳ぎとは比べ物にならない程の迅速さであり、既に泳ぎという段階ではなく、寧ろ水面の上を走っていると表現してもいいくらいであった。

「す、すごいっ!吉備津彦っ!!なるほど、そうするのかっ!!」

 吉備津彦は素早い動作ででいだらぼっちの足元に忍び込んだ。そして、水面を激しく蹴り、でいだらぼっちの右臑目がけて横薙ぎに一撃を食らわせた。

 切り裂かれたでいだらぼっちの右臑から激しい飛沫が弾き飛んだ。

「や、やったっ!!!」

 思わず気張らせた声を上げた岳。しかしながら、吉備津彦の動きは止まる事なく次の攻撃へと転じていた。外もも、内もも、時折、股。様々な部位に激を施す吉備津彦の勇敢な姿が童、岳には男前に映っていた。

 しかし、只黙ってそれを許すでいだらぼっちではない。

 反対の脚で吉備津彦を苛めながら、「ふんっ!」と呻き声を上げたと同時に、人ほどの大きさの滴を鉄砲水のように降り注がせている。

 それを巧みに交わしつつ、寄せては引き、引いて寄せながら応戦している吉備津彦。激しい攻防を見入る事しか出来ない岳。

 もう何十回も滴攻撃を交わす吉備津彦にも余裕が出てきたのであろうか、笑みさえ零している。そんな吉備津彦を見透かしてか、でいだらぼっちも巧みに攻撃の色を変えてくる。

吉備津彦が瞬時に滴攻撃を避けたその時、二撃目が吉備津彦の頭上を襲った。

「なんとおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!」

 吉備津彦は無我夢中に身体を動かし、そして、その滴を切り裂いた刹那、手に妙な違和感を覚えた。水にしてはやけに重く、刃先に絡みつく感覚が否めない。

 事ここに及び、吉備津彦は講習を懸命に受けていた頃の自分を思い出していた。


『嗚呼…。何と儂は愚かなのだ…。奴にはこの攻撃があるという事を忘れていたとは…。嗚呼、講習を受けていたという事を忘れていたとは…。すいません、そして、有難うございました大先生…。』


 刃によって切り裂かれた滴が粘液のように吉備津彦の身体に纏わりついた。それによって動きを封じられ、呆然と虚空を扇いでいる所に、豪快なでいだらぼっちの足蹴が決まった。

 遠い場所へとまるで木偶のように飛ばされていく吉備津彦の姿を、その又遠くで眺めている岳はこう思った。


『ていうかあの滴は、でいだらぼっちの鼻汁ではないのか!?吉備津彦…、えんがちょっ!!』


 新たな発見に胸躍る岳であったが、その後すぐに、自分が恐ろしい状況に置かれているという事に気がついた。

「あの吉備津彦は、もういない…。」

 こうなれば、単身突撃しか方法はないという事を意味する。先程、吉備津彦が企てた陽動作戦など崩壊しているのだから…。

 ふと、岳は後ろを振り向いた。そこには相変わらずの緑白い光に幽閉された狭野尊と、その前で焦りながら叫び声を上げる天鈿女の姿が目に映った。そこで、岳はもう一度確信せざるを得なかった。


『頼れる大人はここには最早いないのだ。』、と…。


 そう覚悟した矢先、船のすぐ側で水飛沫と破裂音が上がった。

 それに驚愕した岳は視界を再び目の前に移すと、そこには気味悪い笑みを浮かべるでいだらぼっちの姿があった。右手で片方の鼻の孔を塞ぎ、すぐにでも鼻汁攻撃を放てる体勢で、まるで捕えた小鳥を嬲り殺すような趣を醸していた。

 先程の攻撃がこちらに気づかせる為に、敢えて外したものだったのだと、その刻岳は初めて悟ったのだった。

「あめたん、この櫂を頼む…。」

 訳が分からぬまま叫び散らしている天鈿女に無理矢理、櫂を手渡すと、「これで、出来る限り遠くへ逃げて欲しい。私はここで何とか食い止めるっ!!」と、言い放った。

 櫂を手渡され、呆然と立ち尽くす天鈿女を半ば置き去りにするように、岳は水面へと躍り出た。

 先程の北の河に比べると、なんと草香江は静かなのであろう。何もない水面など平地と然程変わらないと岳は感じながら、疾風の如き素早さでいだらぼっとへと向かっていく。

 その側で、最早鼻汁と断言できる攻撃が豪雨の如く、所狭しに襲いかかってくる。しかしながら、岳にはそれがやけに遅く感じざるを得ない。

「んっ?吉備津彦は何故、このようなものを懸命に避けていたのか…?」

 でいだらぼっちが仕掛けてくる攻撃も、岳には通じない。三連続、単撃、次は四連続…。それさえも数えられるほど、岳には何の脅威にも感じ取れなかった。転身を図った自分の速さに奴の攻撃が追い付いていない事を悟った刻には、船上で抱いていた恐怖心など微塵も残っていなかった。

 しびれを切らしたのであろう。でいだらぼっちは、攻撃の手を変えてきた。横殴りの平手打ちを仕掛けてきたのだ。

 迫り狂う脅威。掌。それを確認した自分。そして、青い空と白い雲。

 頬に突き刺さる突風を感じながらも、何故か心穏やかに、指と指との間隔を掴み、絶妙にすり抜けていった。

 そして、これは岳の中のニニギ命の力が背を押したのであろうか。すぐさま背を返し、短刀ですり抜けた掌の小指を切り落とした。

「ぐおおおおおおおおおおおおおおおっっ!!」

 激しい痛みを感じているのか、でいだらぼっちから苦悶に満ちた声が上がった。ここで岳はでいだらぼっちに痛みを与えたのだと初めて確信したのだった。

 先程、散々立ち振る舞いをもたらしていた吉備津彦は、何の衝撃も与えていなかったのではないかという事を岳は思いながら、次の一手を講じていたその刻、背後に懐かしい感覚を感じ取った。

「甘いわああああああああああああああああああっっっ!!!!」

 水面の向こうから叫び声が上がり、それに視線を這わすと、そこには吉備津彦が目を爛々と輝かせながら水面を走り来る姿があった。

 岳はその姿に安堵した。

「岳っ!!今漸く、分かったぞっ!!奴を切るには刃に気を集中させなければならんっ!!」

 岳が笑顔で頷いている側を吉備津彦が通り過ぎた。

「先程の作戦通りで行くぞっ!!とにかく奴の眼だっ!!俺も状況を見て奴の背を登るっ!!いいなっ!!」

「御意っ!!!」

 でいだらぼっちへと勇敢に走っていく吉備津彦の背姿を追うように、岳も短剣を構えながら足を速めた。

 右方向へと驀進する吉備津彦の姿に気がついたでいだらぼっちは、今度こそ獲物を仕留めるかのように、獰猛な呻き声を上げながら先程よりも峻烈な攻撃を繰り出している。しかし、吉備津彦はその攻撃の先を読むように余裕綽々と交わしながら、でいだらぼっちへと闘気を込めた一撃を食らわしていた。水飛沫が上がるだけの攻撃ではなく、確実に臑、太もも辺りの肉片を捉えている攻撃。

でいだらぼっちも流石に焦りを覚え始めたらしい。

 交互に繰り出される両足の攻撃と、掌を一振りする度に起こる衝撃波によって立ち込める湖からの水飛沫がうねりながら激しく広がり、辺り一面の視界を完全に奪っていた。

「す、すごい…。」

 ハリウッド顔負けの迫力あるこの状況をしっかりと見据えながら足を進ませる岳の側に、でいだらぼっちと格闘中の吉備津彦が近づいてきた。

「あれっ?どうしてここへ?」

 額に浮かべた汗を拭いながら吉備津彦は言った。

「でいだらぼっちは、それなりな知能を持ち合わせてはいるものの、相手の戦略を読むほどのものではない。ここまで翻弄された奴は、既にいない俺の幻影と戦っている。」

 勇ましい表情のまま、只、虚しく戦っているでいだらぼっちの姿を睨んだ。

「岳、今後の作戦を伝えるぞ。奴の背後へと忍び寄り、お前は左、儂は右から細かく攻撃を加えながら登っていく。きっと奴は予期せぬ両側からの攻撃に度肝を抜かされるだろう。顔辺りにたどり着くと、後は…。」

「後は…?」

 吉備津彦のいきなり止めた言葉の先を、思い描いているその策を、岳は確実に欲しがった。しかし、吉備津彦は真っ直ぐに岳の眼を捉えながら首を横に振り、笑顔でこう言葉を発した。

「岳よ、戦いの結果を言葉にしてしまうと臨機応変に戦えなくなる。後は、なるようにしかならぬ。穢れなき眼で状況を見定め、瞬時に対応せよ…。」

 吉備津彦の眼は微かに赤く光っていた。

 瞬時、岳の胸の鼓動が激しく叩き始め、そして頭の中へと深く落ち着いた漢の声が鳴り響き始めた。


『今コソ気ヲ解放セリ…、今コソ気ヲ解放セリ…。』


 その声の主は、自分に力を与えてくれたニニギ命だと瞬時に悟った岳の瞳は燃え盛る炎のような赤に染まっていた。

自分でも信じられないくらいの力が全身全霊へと漲っている。手に持つ短剣から迸る闘気が放たれていた。

「あい、分かったっ!!吉備津彦っ!!」

 気合の入った岳の声に気を良くした吉備津彦は、剣を天に翳し、高らかな声を上げた。

「打倒でいだらぼっち、日輪は我らにありっ!!いざ、行かんっっっ!!!」

「おおおおおおおおおおおっっ!!!」

 吉備津彦と岳は勇ましく足を進ませ、でいだらぼっちの背後に回り込み、お互いが順序良く交互に攻撃を加えながら上へと向かっていく。

 目の前の標的に対し、感情のまま攻撃を加えていたはずが、微かな痛みが両側から広がっていく感覚に、でいだらぼっちは兎にも角にも戸惑っていた。

 しかし、その謎の状況を瞬時に対応するほどの能力を持ち合わせていない訳で、闇雲に暴れまわるしか成す術はない。

攪乱され、はでに暴れまわる動きは一見力強く映るものの、実は単調であり、吉備津彦と岳にとっては寧ろ都合がよく、動きやすかった。

 二人の動きは、随時やり取りをしているかのように息が合っていた。それが、でいだらぼっちの動きを完全に封じた要因だと言えよう。臑から交互に攻撃を加えつつ、太腿、股、腹、脇、首、顎へとたどり着き、そして、二人同時にこめかみに刃をめり込ました。すると、でいだらぼっちから断末魔の叫びのような声が辺り一面へとこだました。


『ぐおおおおおおおおおおんんんんんんっっっ!!!!』


 このような攻撃で絶命するでいだらぼっちではないと知っていた吉備津彦は、すぐさま突き刺した剣を抜き、俊敏な動きで顔の表面へと飛ぶように駆けていき、奴の眼を横一線に切り裂いた。

 次の瞬間、小山の上を飛び越えるかのように鼻頭へと岳が飛び降りると、切り裂いた眼の奥底を捉えるように短刀を思いっきり突き刺した。

 そして、何も考えず、頭の中に浮かんできた言葉をそのまま口ずさみ、柄を更に力強く握りしめると、刃に宿る闘気に凄まじい力が迸り始め、でいだらぼっちの後頭部を貫通した。


『がああああああああああっつっつっつっあああああああっ!!!!』


 これには流石のでいだらぼっちも只ならない様子で、両腕、両足をばたつかせながら、もがき苦しんでいた。

 全身を激しく揺らせているでいだらぼっちの上に立つ両人の足場は段々と怪しくなってきた。

「き、吉備津彦…。奴はここまでしても絶命しないのか?」

「儂も封印までの話は学んでいるのだが、絶命するまでの話は聞いた事がないっ!これからは正しく、なるべくしてなる話だっ!!岳、降りるぞっ!!」

 吉備津彦の声に合図もせず、両人は飛び降りるようにでいだらぼっちから投降し、解脱した。

 頭を貫通されたはずが生を成しているという神秘は如何なるものぞと岳は密かに思いながら足を進ませていた。

 水面へとたどり落ちる矢先、ふと、上空を眺めた両人が見た情景は、日輪の光を背に、そして闘気を誇らしく這わせた剣を剥ぎながら、苦しむでいだらぼっちへと覆い被さるように飛ぶ人影が見えた刹那、空間は白い闇へと包まれていった…。

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