第57話 第九章 平定されたはずの地

「波のおおおおお、谷間にいいいい、命の華があああがああああっ、とくらっ♪」

 遊覧の為に設計されているらしきこの船は、そんじょそこらの風や波で揺るがない事を知っている狭野尊は、吉備津彦と岳が櫂で一生懸命漕いでいる横で悠長に唄いながら、つかの間の船旅を楽しんでいた。否、でいだらぼっちが現れると予測を立てたところへとたどり着くのを待っていた。

「二つうううう、並んでえええええ、咲いているううううううっ、だっ♪」

「狭野っ!さっきからその歌何なのよっ!?聞いてて…、何だか切なくなるわ。」

「天鈿女様っ!何故にこの旋律で切なくなるのかっ!?」

 思わず吉備津彦は漕ぐ手を止め、天鈿女に突っ込みを入れた。が、まるで聞こえていない様子でうるうると瞳を潤わせていた。その態度に満更の様子でもない狭野尊は笑いながら言った。

「おお、天鈿女よっ!お前もこの歌の意味が分かるのかっ!これはな、二千年後で大活躍している鳥羽一郎という歌手の「兄弟船」という曲だっ!厳しい時代を果敢に生き抜く漁師兄弟の美しい愛の物語なのだっ!よしっ!唄うぞっ!皆の者、俺に続けっ!!兄弟いいいいいい船はああああああ、っか♪」

 水面に立つ波形の変化や、辺りに漂う気配を肌で感じつつ路を進ませる吉備津彦は、正直この歌声が邪魔で仕方がなく、自分が抱く一抹の不安も何のその、陽気に唄う狭野尊にまさかの不信感を抱いていた。

「奴がいつ現れるか分からぬ状況下で、唄っている場合なのですかっ!大先生っ!!!」

 吉備津彦の険しかないその言葉は、気持ちよく唄う狭野尊を怪訝なる表情へと瞬時に変化させた。

「彦五十狭芹彦、これ以上俺をがっかりさせるなよ?ただ、唄っているのではない。逆に俺達の気配を奴に悟らせているのだっ。俺が感じるに、でいだらが現れる場所は湖の丁度真ん中付近。奴の身体のでかさを考えれば、そこら辺が関の山だろう。元来、山の精霊である的な!?」

「あっ、吉備津彦…。あそこの水面の形、何かおかしくないか…?」

 微妙に盛り上がる水面を確認し、声を上げた岳。

「ぬっ!!面妖な気配が漂っておるぞ…。まだ少し距離のあるこの場所で停泊し、奴の出方を図ろうぞ…。」

 櫂を置き、即座に剣の柄に手を回した吉備津彦は、その妙な水面を凝視していた。

 瘴気に似た霧が辺り一面に広がっていく。水面の盛り上がりは段々と大きくなっていくと同時に、船に伝わる波形は相対して激しいものへと変わっている。

 何かが起きようとしている緊迫感が、この一行(一名を除く)の喉元を刺していた。

 水面はやがて人の背くらいに盛り上がりを確認したと思うと、狭野尊は、口元を歪ませながら、まるで血沸き、肉躍るような溌剌とした態度で荒げた声を叫ばした。

「ははっ!早速姿を現したな。噂をすれば影とはこの事ではないかっ!!この俺に反旗を翻し、反目についた事を後悔させてくれるわっ!皆の者っ!!半身に構え、抜刀っっっ!!!」

 その叫び声が辺り一面に広がった矢先、どこからともなくしわがれた初老の声が一行に降り注いできた。

「ようこそ、お前達が黄泉の国へと旅立つ入り口へ…。と、言いたいところだが、まずは聞きたい事がある。神大和磐余彦尊よ…。何故お前がここにいるのだ…?」

 その声の主が誰であるのか…。暫くの間、考えあぐねていたが、漸く思い出したと表情を変えた、狭野尊はここで少しだけ冷たい汗をかいた。

「まさか貴公、御自らが出てくるとはな。俺も高く買われたものよ…。なあっ!大和邪神組合長、大国主よっ!!!」

「史実上では逢った事のない儂の声を、よくも判別する事ができたな。流石は我が組合の永遠なる好敵手、神大和磐余彦よっ!!!」

 一行が乗る船の前に、緑白い色の靄が漂い始めたと思うと、それはすぐさま集中し、人型に変わり、そして、形よく美豆良を結い、白い衣を纏った中肉中背の初老が、不敵な笑みを浮かばせながら姿を現した。

「務古でこやつらの行く手に潜む危険を察知し、路を逸らすまでは我が策士達の考えにあった…。しかしながら、すぐさま姿を現すと予想した者が一神だけいたのだが、まさかそれはあるまいと儂がその意見を跳ね除けたのだ。それが、まさかこのような結果に至るとはな…。」

 狭野尊の目元が刹那、ぴくりと動いた。そして、大国主は深い笑い声を浮かべながらこう呟いた。

「流石は我が配下、月読の描写読みと言えようぞ…。」

 その月読という名前が上がった突如、一行に進撃の刃が突き抜けた。

「何っ!!月読命様だとっ!!!」と、まるで眼球が飛び出そうなほど、目を見開かせながら驚愕せしめている吉備津彦。

「えっ!?月読命様って…、まさかっ!!?」天孫社の中で、天照会長の弟であり、第二の地位にいる役柄。表だって姿を現さないせいか、伊弉弥様以上に暗い噂が絶えない、ある意味天孫社員の注目の的である上司の名が、この神の口から出たという事にやはり驚愕せざるを得ない天鈿女。

「はーっはっはっはぁ!!そう、神大和磐余彦が東征する前から、お前達天孫社の第二の御仁であるはずの月読は儂の配下に落ちておったのだっ!! この儂がここにいるならば、狭野尊でさえ既に張り子の虎っ!!まずはこうしてくれようぞっ!!」

 大国主は何かを呟かせながら印を組むと、狭野尊の足元に緑の方陣が広がり初め、円形状の結界が狭野尊を包囲した。

 しかしながら、その状況に対しても余裕ある笑顔を浮かばせながら、狭野尊は言葉を発した。

「ふっ…。大国主よ。結界で封じるという子供だましが俺に通じるとでも思っているのか…?随分舐められているようだな…、おいっ!!」

「子供だまし…?ならば試してみるがよい。完全なる結界の怖さを知らぬが罪だ。いでよっ!!邪神と化した、でいだらぼっちっっっ!!!」


『ぐおおおおおわあああああああああああんっっっ!!!』


 山彦のように起ち込める呻き声と共に、先程まで程よく盛り上がっていた水面は、たちまち覆い尽くす山の如く、全てを呑み尽くすほどの影の大きさに変化した。

「この者達が死する後、今や身動きを取れぬお前は嘗て封じたこの者にいいよう甚振られるがよい…。そして天照、嘗て犯した過ちをここで清算させてもらうぞ。心の底から悔やめっ!!あーーーっはっはっはっはっ!!!あーーーっはっはっはっはっ!!!」

 勝ち誇り笑い狂う大国主を天鈿女はきつく睨んだ。

「愚かにも私、天鈿女が大国主命様に申し上げ奉ります。貴方様ほど高貴で仰せられるお方が、余りにも下品でございますぞっ!!このような、下劣…、我が天孫が許すと御思いでございましょう事かっ!!!」

「ふっ…、言ってくれる。最愛の息子の肩をもぎ取られ、一家離散させられた過去の悔しさが、平々凡々と刻を過ごしてきたお前に分かるというのかっ?懸命に創った国を、横やりに奪われた運命を、只の国津神であるお前に分かるのか…?」

 大国主は決して視線を合わせぬが、憂いを帯びた瞳でそっと呟いた。

「分からぬのなら、それはそれでよい。只…。」

「た、只…?」

 大国主は、強い光を瞳に宿し、天鈿女を睨んだ。その瞬間、強い疾風が辺り一面に覆い被さった。

「貴様らが生まれた意味、天孫社の命運を恨めっ!!そして、死した刻、黄泉の伊弉弥にその意味を問えばよい…。では、さらばっ!!」

「えっ!大国主様っ!!」

 天鈿女の叫び声は何事もなきように、大国主の姿はその側から消えていた。

「天鈿女、驚愕するなかれ。こんな結界、すぐさま解き放ってくれようっ!!」

 狭野尊は笑顔でそう言いながら、印を組み祝詞を唱え始めた。何種か印を組み変えながら、長い長い祝詞の羅列を唱え続けている狭野尊の額には妙な汗が流れている。そして…。

「覇っっっつつつ!!!」

 まるで空間を切り裂くように狭野尊は腕を振るわした。しかし…。


『エラーコードxxx。ハンノウシマセンデシタ…。』


「なん…だと…。我が複数の策を講じたパスワードさえも通じない…。」

 これには流石の狭野尊も脱力感が全身に憑依した。

「狭野っ!!!」

天鈿女が叫んだ目の前に残された情景は、強力な結界に幽閉された狭野尊の姿と、強大な壁の如く立ち塞がるでいだらぼっちの姿に驚愕する吉備津彦と岳。

そして、成す術も見いだせず、生汗を浮かべているだけの自分、天鈿女。

今、正しく一行が、否、この大和が万事休すの状態に陥っているのであった。

 大国主の勝ち誇った笑い声と、邪神でいだらぼっちの辺りを凍りつかせるほどの呻き声が、一行の背筋に重く伸し掛かった。

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