第55話 第九章 平定されたはずの地

「ところで、狭野。戦略研究所って何やってんの?」

 狭野尊と天鈿女は歩を進ませながら取り留めもない語らいを続けていた。

 このような巡り合せなど二度とないと、天鈿女はいつになくきばった様子で狭野尊へと話しかけていた。

「んあっ?おっ!?天鈿女、興味あるのかよっ!?ならば語ってやろうっ!!」

 それまで天鈿女が必死に話しかけても、相槌を打つばかりであった狭野尊がいきなり溌剌とした声を上げ、眩しい表情へと変わった瞬間であった。

「俺がいる戦略研究所というのはだなぁ、この大和が窮地に追い込まれてしまった刻の究極の救国機関なのだ。でだなぁ、古今東西の戦を調べ上げ、如何なるような敵にも対処しうる策を講じておるのだっ!!」

 嬉しそうに語る狭野尊。天鈿女にとって、全く興味のない話であるが、特に嫌な気もせず、寧ろ微笑ましいほどであった。

「うんうん、それでそれで?」

「それでだなぁ、目下研究中の案件が…。官渡だ…。今は官渡が熱いのだっ!!!」

 天鈿女の背中には大きい疑問符が出現した。しかし、それを思っては話が続かない。

「うん…。ああっ!官渡ねっ!!知ってる知ってるぅっ!!」

「何っ!天鈿女っ!知ってるのかっ!!なかなかじゃないかっ!!俺が思うに、この戦いを率いた袁紹は…あほだな。そうは思わないか?天鈿女よっ!!」

 やはり疑問符は消えない。

「えっ!?えーとっ。関東で延焼?あ、分かったわっ!!東京で燻って、ついでに神奈川まで燃えちゃった話の事よね?本当に居た堪れない話よねえ…。」

 今度は狭野尊の背中に大きい疑問符が出現した。

「はっ?天鈿女よ。関東ではなく官渡だ。関東は二千年先の話になってくるではないかっ!!そうではなく、異国の地の話じゃっ!!」

「あ、という事は、上総国(現、千葉県)とか、上野国(現、群馬県)って話?」

 狭野尊はやる方ない表情を浮かべた。

「違う、というかお前、全然分かってないじゃないかっ!!いいか?大陸の話だっ!!官渡もいいが、赤壁は更に炎上していたぞっ!美周郎って知ってるか?」

「いや、知らないわ…。」

「何だ、天鈿女よ。知らないのか?あんな男前な奴を知らないなど珍しい話だな。まあ、こういう話なのだ。」

 楽しそうに語る狭野尊と、それを何となく聞く天鈿女。その会話をどう聞く事もなく、日の光に手を翳しながら懸命に路だけを行く岳と吉備津彦の姿があった。

 河の堤防を越して、暫くは平凡な路を進ませている中、少し開けた集落に差し掛かる。進行方向右側の少し遠い場所には、日の光と白波が互いに交差する海が広がっているのが見えた。

 民の群れが一行の側を次々と通り過ぎていき、それを横目で受け流していると街は商店や住宅が入り混じる集落へと差し掛かっていた。

 明石や生田の祭りの賑わいまでとはいかないものの、程よい活気ある雰囲気が妙に心地よかった。

 相変わらず狭野尊は独自の激論を繰り広げていて、時折、相槌に求めた狭野尊の声に、乾いた笑い声で対応している天鈿女。

 そのやり取りを聞いて聞かずか、額に汗を浮かべながら黙って足を進ませる吉備津彦。岳はそっと声を発した。

「吉備津彦…。ここから先ってどこに差し掛かるのじゃ?」

「ここから半刻路を進ませた所に、草香江という大きな湖が見えてくる。そこからどう路を進ませるのかは、多分儂達に決定権はないであろう。あの二神が決める事になるであろうがな…。」

「あ、そうなのか…。まあ、その草香江という湖が見えてきた刻に分かるのだな…?」

 その言葉に吉備津彦はどこか神妙な面持ちで黙って頷き、又もや視線を路の先に戻し足を進ませた。その態度に対し、感じた微かな疑問というか不安を言葉にする事もなく、岳も懸命に足を進ませる。

 なるようにしかならない事など、もう分かり過ぎていた事なのだから。

 気がつくと、先程の集落から大分離れた場所まで歩いてきているらしく、平原の向こう側に大きく広がる群青の姿が目の前に現れ始めた。

「岳よ、これが、河内国が誇る最大の自然要塞関所、草香江湖だ…。」

 何故か戦々恐々とした面持ちで呟く吉備津彦の声とは裏腹に、狭野尊は相変わらず熱弁し、高笑う声がまるで高天原へと届くかのように舞い上がっていた。

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