第54話 第八章 理不尽な激流、前へ…

 たどり着いた瞬間、先程まで真っ赤に燃えていた瞳の光は消えた様子であるが、窮地を乗り越えた岳は確実に力をつけていた。

 吉備津彦は岳の声に一つだけ頷いて、残りの路を、お互いが懸命に進ませていく。

 迫り狂う波は相変わらずだが、どうにか何とか交わしながら残り路を立ち泳ぎ、そして両名同時に向こう岸へとたどり着く事ができた。

 多分大層河の水を飲んだ事だろう。二人とも跪き、咳き込む事しか今はできずにいた。

 現在の北の河はというと、水面に穏やかな水流広がる河川であり、ここに表現した激流など想像できないだろう。しかしながら、今は昔の物語。

 今よりも水が放漫に流れていたと予測できるから、きっとこうだったのであろうと予想した描写である。

 それはさて置き、相変わらず咳き込み、俯かせている二人に、背を戦慄かせた一人の漢の姿が忍び寄ってきた。

 何より傲慢に、そして優雅に高らかな声を上げた。

「二人とも、よくぞ渡りきったっ!!褒めて遣わそうぞっ!!」

 一度言葉を切り、そっと天を仰ぐと、再び言葉を続けた。

「まずは彦五十狭芹彦。お前は何もいう事はない。よって、立派だったぞ…。」

 吉備津彦は咳き込んでいた姿を徐に上げ、すぐ様跪かせた。

「さ、狭野尊大先生っ!!勿体なき御言葉っ!!」

 その言葉に狭野尊は笑顔でそっと手を翳すと同時に、まるで天地をひっくり返したような、憤怒する表情に変え岳の方へと視線を向けた。

「おいっ!岳津彦っ!!お前はニギギ爺の力を賜ったにも関わらず、河の神の力を抑えられず流されてしまうなどどういう事なのだっ!という事はだな、今のお前には神通力は愚か、精神力さえも兼ね備えていないという事になってくるっ!冷静な状況の内に力を使えてこその天津神なのだっ!!!」

 狭野尊の背後から雷のような光や音が密かになっていた。憤る気持ちを抑えつつ発しているの言葉なのだろう。

 そして、吐き捨てるように言った。

「赤い炎を纏いし者には、相応しくない者なのかも…しれぬな。」

 狭野尊は岳の方を冷たい視線で見尽くしていた。

 この出来事を傍で終始見ていた天鈿女は、この刻始めて自ら言動しなければならないと思った。それは多分、岳を護りたいと想う一心からなのであろうか。

 否、きっとそうではない。

 神大和磐余彦の子孫である岳。

 これまでの旅で、只の吉備国の民である岳津彦に、何度もはっとさせられた出来事を目の当たりにしていたのも然り、この岳という存在は、天鈿女の中でとんでもなく大きい存在になっており、果てしない夢であるのかもしれない。

 安寧の名の元に、この芦原中国、大和を担うでかい漢に。そして…、私が心底求め彷徨っている愛すべき白馬の王子様になってくれるという希望の形に…。

 だからこそ、その想いを胸に天鈿女は狭野尊の言葉に、力強く割って入った。

「た、岳は、まだ童…。これから先、学ぶ事がいっぱいあるの。私も、吉備津彦も、教える事がまだまだあるのよっ。だから狭野、今は堪忍してあげてよっ!頼むからっ!!」

「だから…、ちょっと待てっ!!」

「えっ…?」

 怪訝そうに表情を曇らせている狭野尊に、少しばかり慈しむ光が宿っていた。そして、再び岳に言う。

「汝はこれからどうなっていきたいと思っておるのか?」

 先程まで俯き、咳き込んでいた岳の呼吸も落ち着いていて、狭野尊の表情を上目使いで見つめながら話を聞く事ができるまでになっていた。

「え…、私は…、只、弥生に逢いたい一心で大和へと向かっているだけ…。これから先、どうなりたいなど考えた事もない…。」

 岳は困惑しながらそう言葉にするしかできなかった。

 それはそうである。吉備国で生業をし、只過ぎゆく刻のまにまに身を預けていた岳にとって、この旅の描写自体が未だに半信半疑なのである。ここで思い返すと、不条理の名の元に始まり、有意義さなど一片の欠片もない。

 確かにこれまで様々な人や神との出逢いがあった。それによって、自分自身に与えられた発見は計り知れないものである。それがこれからの自分をどこに誘おうとしているのか今は皆無であるが、吉備国にいたあの頃より少しばかりは何かを知ったような気がする。

 そう思い返しながらも困惑する岳の心を見透かすように狭野尊は優しく微笑みを浮かべながら岳の背に言葉を乗せた。

「今の汝にはまだ分からぬ事であろう。だが、それでいい。頭で考えても、分からぬものは分からぬのだから…。」

 狭野尊は蹲る岳の目線に合わせるように、ゆっくりと跪いた。

「だが、汝の心は既に感じ取っているはずじゃ。」

「そう申されても、それが何か分からないのですっ!!」

 岳はまるで我を忘れ、取り乱したかのように叫んだ。

 狭野尊はそれをはらりと受け流すと、しっかりと岳の視線を見据える。万弁の笑みを浮かべているものの、その眼は岳の心底を十分に見越した光を突き刺していた。

「分からずともよい。只、心に正直であれ。その心がいずれ、汝を誘う道標となろう…。」

 岳は、狭野尊が発した言葉の意味を殆ど理解でいなかったのだが、「心に正直であれ。」という言葉だけはその通りであると思った。

 今、自分を突き動かすのは弥生への想い、只それだけなのだ。神大和磐余彦様から賜った御言葉の深さは後に分かるのであろう。

 これまで、路を阻み、苦難を与えてきた人物であるというのにも関わらず、何故か心が温かくなっていくのが不可思議で仕様がなかった。

「何だかんだで、丸く治まっちゃってるじゃないの…。」

 正真正銘天津神の悠々たる姿と、天津神見習いの情けない姿。そして、頑なに国津神を名乗る背を丸めた姿達を天鈿女は眺めながらそう一人ごちた。

 ここは一件落着。大和までの路はもう少しであるが、まだまだ気は許せず東の方角へと視線を這わせた。

 この試練の描写を耐えた皆に、太陽の光は眩しく降り注いでいた。



 狭野尊の余計な計らいを耐え抜き、死守した岳一行。…もとい、岳と吉備津彦。

これからは摂津の地。

 狭野尊は関所から何故か離れる様子もなく着いてきている思惑は如何に…。

 刹那的に安寧が訪れ、話を止ます事無く進む一行達にこれから何が起こりうるというのか。

 次回へ続く。


                     第八章 おしまい

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