第52話 第八章 理不尽な激流、前へ…

 狭野尊の姿に追いついた岳一行は、黙って歩く狭野尊の背姿についていく事しかできなかった。

 摂津国関所から北の河までそう刻などかかる事なくたどり着く場所にあるらしく、過ぎ去る景色を岳はぼんやりと眺めながら足を進ませていた。

 吉備とは全く違う草木や、それを揺らす風の薫りや、空の色さえ違う気がしていた。

「吉備津彦…。これからどうなるのかしら…。」

 天鈿女は先ほどまで見せていた姿とは違う、柄になく心配そうな声を上げた。

「どうなるのかは正に皆無。狭野尊大先生に任せましょうぞ…。」

 吉備津彦はこう言うしかできなかった。

 それもそのはず、自らの札を叩き割られた吉備津彦がこの場で一番負債を経ているのだから。

 天鈿女は吉備津彦に問う事は諦め、狭野尊の背姿を眺めた。

 只、自分達の先を歩く狭野尊はきっと、このように財団法神、天孫に語り継がれる伝説を残してきたのだろうと、思わず胸が熱くなる感覚に囚われた。

そして、狭野尊は足を止め、やっと後方へと姿を返した。

「北の河へたどり着いたぞ。」

 先程まで岳が鑑賞しながら通り過ぎていた森はいつの間にか抜けていて、そこには遠くに山脈の悠然たる姿が一望できる場所。しかし、見渡す限り河川敷と河、水、砂、泥、そして青い空、白い雲、深い闇。そして、一本の長い橋の側に守衛が一人。

 狭野尊はその守衛に近づいていった。

「押忍っ!ご苦労っ!」

「あ、狭野尊様っ!お疲れ様でーすっ!今日はどうしたんすか?」

 守衛は狭野尊の姿を確認すると笑顔になった。

「本日は天気晴朗なれども波高しっ!!よって河を渡らんと欲すっ!!!」

「は、はあ…。この河、いつも波高いですが…?」

「馬鹿野郎っ!!そんな事はどうだっていいんだっ!!この漢二人を鍛えてやろうと思ってだなあ…。よって、この河を立ち泳ぎで渡らそうと思っておるのだっ!!」

 その言葉に守衛は只、唖然と「御意…。」と呟く事しかできない様子であった。

そんな中、狭野尊の会話上、自分達にこれから起りうる出来事を瞬時に悟った両名は、目の前の河の激流を眺めては驚愕に心は揺れ動いていた。

「き、吉備津彦…。私は瀬戸内の母の水面でしか立ち泳ぎをした事がない。だから、こんな殺伐とした水の流れなど知らんっ!!」

「た、岳よ…。安心しろぃ。こんな所、まずは泳ごうと思う奴はおらん。儂も以前は横の橋を渡ってきたのだ…。」

 岳は徐に叫んだ。

「ならば、何故泳がねばならぬと言うのかっ!これ以外に路はないと言うのかぁっ!!」

 その問いに答えたのは吉備津彦ではなく、狭野尊であった。

「無いっ!!!」

 自信満々に答える狭野尊の溌剌とした声に、吉備津彦も岳も言葉を失い、ただ項垂れるばかりであった。その二人の代行とでもいうように、天鈿女が返す。

「そんな決定権があんたに有るって言うの?」

「有るっ!!!」

 狭野尊は財団法神、元社長であり、その役柄を退任した後に、今の大和朝廷の安寧を守護する機関である『戦略研究所』の所長に治まっている漢である。ミスター・御肇国天皇であるが故、本当なら名誉会長に就任されてもおかしくはないのだが、現場第一であり、そもそも堅苦しい会社に縛られるような役柄など引き受ける事などない。

 よって、吉備津彦が抗えるはずもなく、吉備津彦の弟子であり、狭野尊の子孫だという噂の岳も口を挟む事もできず、そして、圧倒的な上司である事を今こそ思い出した天鈿女も然り…。

 漢二人は、河を渡る覚悟ではなく、死を覚悟した瞬間であった。

 決死の思いで召し物を脱ぎ、荷を頭に抱え、泳ぐ準備を始める二人を他所に、何もせず突っ立ったままの天鈿女。

「あめたんっ!!汝は何故、泳ぐ準備をせぬのだっ!?一体どうするのだっ!?」

 その純朴な問いかけに、天鈿女はうがった眼つきで睨みつけてきた。

「あんた、私を誰だか忘れているようね?私は神よ…?そんなあんた達と同じ路を行く訳ないじゃない。」

 脱いでいる甲冑もそのままに、吉備津彦は蔑みを多分に含んだ表情で驚きの声を上げた。

「と、という事は、天鈿女様は、橋を渡られると…。」

 天鈿女は更に睨みを効かせ、吉備津彦に怜悧な視線を浴びせた。

「あんたね…。天孫グループの端くれならこれくらいの事知っときなさいよ。」

 そう言葉を発させながら天鈿女は河の畔へと自信満々に突き進む。そして、こう言葉を発した。

「神に橋など必要ないの…。よーっく覚えておきなさいっ!!」

 言い終わるや否や、天鈿女は水面に足をつけた。しかしながら、そこに沈む事もなく、水の上、激流の上を優雅に歩かせていく。

「なんとおおおおおおおおおおおおおおっっっ!!」

 信じられぬ、と言うか、大事たる基本を忘れていたと言えよう。そうだ、この女は神であったのだという事を…。

 吉備津彦の敗北感にも似た雄叫びが北の河全体に響いた。

 岳はと言うと、天鈿女の美しく優雅に河を渡る背姿を眺めながらこう思っていた。


『今まで私達に付き合っていてくれたのは、優しさだったからなのか?それとも…。』


 岳はその続きを敢えて考えない事にした。

 これ以上考えた所で、詮無き事である。それよりも、この状況をどう打開するべきか、否。どう順応していくのかというのが先決である。

 そんな岳の悲壮感漂う決意など知る由もなく、天鈿女は彼岸で大きく両腕を振らせながら無邪気な声を上げていた。

「こっちよーーーーーーっ!!あなた達ぃ!!は・や・くうううううっっっ!!!。」

 岸の向こうではしゃぐ天鈿女の姿を追いかけては、岳はここで完全なる確信に至った。そして、一人ごちたのだった。

「あめたん…。あんた、やはり意地悪だっ!!!」

 吉備津彦は震えながら、狭野尊に問うた。

「と、いう事は、大先生も…。」

 狭野尊は向こう岸にいる天鈿女の姿を眺めながら、不敵な笑みを零した。

「吉備津彦、俺をあの力と相対するとでも思っておるのか…?」

「えっ!?」と、岳。

「えっ…!?という事は、新たな伝説がここで生み出されるとでも…?」と、吉備津彦。

 狭野尊は、深呼吸を施した後、両肩を回した。そして、半身に構え、この激流を捉えながら呟くように言葉を発し始めた。

「この前、出張先で面白いじじいに逢ってな。」

 いきなり予想もしなかった話にどうしようかと二人は身構えた。吉備津彦は言う。

「じ、じじい?翁ですか…?」

 吉備津彦の問いに答える事もなく、狭野尊はまるで童のような笑顔で話を続けた。

「モーゼって奴を知ってるか?」

「ふぁっ!?」

 この二人はそんな名前など聞いた事もなかった。

 戸惑う反応を他所に、狭野尊の更なる言葉は続いた。

「いやー、このじじいすごくてさ、この技を学んできた訳だ。」

 狭野尊は再び激流に視線を向け、三角眼を這わすと、右腕を天高く翳した。

「我が身を、括目せよっ!!!!」

 その声を合図に右腕を勢いよく振り下ろすと、怒涛の疾風が目の前の空間を切り刻んでいく。

 次の瞬間、河は轟音を響かせながらみるみるうちに切り離されていき、そこには、幾人か通れるほどの路が開かれていた。

 吉備津彦も岳も、息を呑みながらこの情景を眺め尽くすしかできない。

 狭野尊は、その隙間を誇らしく歩んでいき、その間で、目が合った魚達に合図をしながら路を進ませていった。

 そして、岸の向こう側へとたどり着いて、吉備津彦と岳に言葉を発した。

「どうだ、怖かろう…。」

 その声に何かに気づいた吉備津彦は、徐に叫んだ。

「岳っ!今なら何の苦労なく河を渡れるぞっ!!我に続けよっ!!!」

「吉備津彦っ!!!!!」

 二人は何かを期待するよう、そして、縋るようにその路を駆け出した。

 そして、畔に差し掛かり、その空間へと足を踏み入れたその刻…。

「お前達、甘いわっ!!!!!」

 狭野尊が両腕を激しく交差させると、先程まで開かれていた河の隙間は瞬時に両端から埋め尽くされ、元の激流へと戻った。

 既に足を踏み入れていた吉備津彦は、この激流に浚われ、姿は水中へと没していった。

 それを一歩手前で呆然と眺める岳。そして、岸を渡り切った御二神を睨み尽くしていると、水面から吉備津彦の姿が勢いよく踊り出てきた。

 水浸しのまま吉備津彦は、瞳を爛々とさせて岳に言った。

「た、岳よっ!!ここは河川だが、儂達にとって大きな山場となったっ!!心を決めよ…。」

 もし、ここを生きて渡れる事ができれば、自分の中に何が生まれ、そして何を得られる事ができるのだろうか…。岳はそう思いながら、瞳を閉じて大きく深呼吸した。

 自分とは相反して落ち着いている態度の吉備津彦は、これまでに物凄い修羅場を潜り抜けて今に至るからなのであろう。

 もしかして、この状況を打破すれば、もしかしたらば、この吉備津彦のように、もしかするのか?

 岳は徐に目を開け、決した意を表明するかのように吉備津彦に力強く頷いた。

「よしっ!岳、行くぞおおおおおおおっ!!!!」

「おおおおおおおおおおおおおおっっっ!!!!」

 勢いに乗り、大声を上げながら河の中へと突っ込んでいった。

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