第5話 序章 静かな海からの旅立ち

 岳は泣きながら松林の混沌を走り抜き、遂に砂浜へと転がるように抜け出る事ができた。

 口に入る砂を吐き出しながら海の方に視線を向けると、先ほど我が身に起こった出来事など露知らぬように、月夜に晒された静かな瀬戸内が目の前へと相変わらず広がっていた。

 どの描写であろうとも、いつもこの海に魅せられていた岳であったが、今だけはそう悠長な事など言ってはいられない。

 全身に纏わりつく砂を振るい除き、砂浜の端へと足を早ばせた。


 岳は弥生と出会うまで一人きりで生きてきた。

 一人で考え、一人で行動し、何か思い悩む時にこの海原を見つめては、一人で頭を抱えていた。即ち、正しく独りであった。

 そんな孤独だけを抱えながら過ごしていたある日、岳の身に不思議な出来事が起こったのだった。

 岳の家は近隣周辺の村から少し離れた所に在り、余程の事がない限り村から民が訪れる事などなかった。しかしある日の宵中、家から一番近い場所にある村の長が突然岳の家の前に姿を現した。

 どこか戦慄した面持ちで岳の方を見つめながら立っていた。

「山野村の長よ、こんな刻にいかがなされたのじゃ?」

「岳津彦よ…。単刀直入に物申す。川利村と我が村の戦、是非我らと共に戦ってはくれぬか?」

 山野村と川利村との戦…。

 確かこの村々は、祖の時代から共に力を合わせ山賊や海賊などと戦う為に、熱い契りを交わしている同盟村と話を聞いていた。そんな村々が何故、戦を勃発させようとしているのか…。岳は長に問いた。

「熱い同盟村と聞く汝らが、何故にこの刻に有事と至ったのじゃ?」

 長は暗い目を更に暗くさせて岳から視線を逸らした。

「それは汝の知らなくても良い事じゃ。珠の剣一門である汝の力を手にすれば我が村にとって大いなる飛躍の一歩である事は明白なのである。明日の朝一番に我が村へと出頭し、有事への準備をせよ。では、明日に待ちわびているぞ、岳津彦よ…。」

 長はそういい残すとすぐ様その場から立ち去っていった。

岳の胸には様々な疑念と疑惑が憑依し、何とも言いようのない混沌とした想いに苛まれていった。

 まず岳が思った事は、理由聞かずして戦に参加する意味などないという事。

 しかも火の精霊『珠子』から賜っている珠の剣術を、そんな訳の分からない戦へ用いられようとしている事が岳に対して心外の他、何物でもなかった。

 実は、ここ二年ほど前から吉備国の豊かな森が明らかに変わってきている事に岳も気がついていた。湧き水は昔から比べると明らかに減っていて、木々の青々と奏でられていた彩りも、どこか卑屈に感じるほどであった。

 そんな森や松林に住んでいる動物達に安息な暮らしなど訪れるはずも無く、以前から消極的な精霊達はいつの日か姿を現さなくなった。

 吉備国は愚か、この土地の他など何一つ知らない岳にとっては、何がどうなっているのかさえ想像できないが、只一つだけ、どこかで災いが起ころうとしている事だけは感覚していた。

 祖から紡がれてきた美しいこの地の、心優しき民達が今、牙を剥き出し合い、血で血を洗うように戦い続け、この地が戦火に埋め尽くされてしまった後の話など…。

 しかしながらどうする事もできない自分の無力さが歯痒くてしょうがなかった。

 ここはまさか、やはり朝一に山野村へと出頭せねばならなくなってくるのか。それに対して、自分なりに意味を見出す事ができるのか、珠の剣術を用いてこの地の民を殺める意義は存在するのか…。岳は激しく憂いた。

 想えば想うほど、どうしたらいいか、どうなってしまうのか分からない切迫感が岳の心を擦り減らしていき、次第に疲労感が全身全霊を苛めていく。今はそれを拭い去る力など岳にはある筈も無く、ここだけは唯一の絶対領域である我が家の中でも形の無い不安に縛られて、激しく打っている脈は治まる気配も無かった。

 息が詰まる感覚が嘔吐の如く込み上げてきて、やっとの想いで玄関の外へと飛び出した。家のすぐ側にある木に背を預け、正しい脈の取り方を思い出すように激しく呼吸を繰り返してみても、やはり動悸は一向に治まる気配などない。

まるで木偶の坊みたいに全身をふらつかせながら、思わず辺りを見渡してみると、そこには当たり前のように闇しかなかった。

 しかし、ここにいるだけではこの動悸が治まる事など絶対にない。兎にも角にもこの場を離れなければならないと思った岳は、まるで誰かへと救いを求め、この場から逃げ去るように、岳は松林の中へと飲み込まれていった。

 草木も眠る宵の中、この松林の中は漆黒の闇に塗れていた。

 暫くは闇の中を何想う事もなく彷徨い続けていると、あれだけ激しく脈打たせていたこの胸が、確実に沈静化されていっている事に岳は気がついた。

 もしかするとこの松林がもたらす闇が、人の心を癒す効果でもあるのだろうかと考えてみたが、直感的にそうではないと思った。

 只、幼き刻から岳を育んでくれたこの松林が我が父であり、この先に広がる瀬戸内の海が我が母であるのだ。

 今は我が父の胸にひたすら抱かれているという事になり、心が安らぐのは必然の事なのだ。そう思うと岳は何故か可笑しくなり、腹を抱えて、大声で笑いながら、相変わらずの闇を一人歩いた。

 今まで一度もこんな宵刻に松林の中を歩いた事など無かった訳で、日中なら必ず姿を見せる春日や珠子の気配も感じられない。只、今いないだけなのか、気配を晦ませて、いつもより少し様子のおかしい岳を、どこかで伺っているだけなのかは気になるところではあったが、今こそ我に返った岳には最早どちらでもよかった。今度合った刻に問いてみても、敢えてはぐらかされる事など安易に想像できるのだから…。

 どの方角へ自分自身が足を運ばせているのかさえ分からないまま、直感的に路を歩いていると、ふと風が微かな磯の香りを乗せて頬をなぞり始めていた。

 我が母なる瀬戸内の海が近い。そう感じると、岳は思いもよらず、その場の空間を切り裂くように身体を駆けさせていた。

 葉と葉が奏で生む闇は月の光によって徐々に薄まりを見せ始めたと感じた刻、今まで自分の行き先を邪魔するように枝を伸ばしていた木々が、まるでその場から端へと追いやられるような形で生え始め、ふと気がつくと、神殿ほど広い空間がふと視界に広がり、岳は足を止めて息を呑んだ。

 そこには未だ見た事のない昆虫が地を這い、宙を舞っていて、足元には少し背の高い小さい黄色の花をつけた植物が所狭しと風に揺れていた。

 その幻想的と思える空間を朧気に見尽くしていていると、この広がる場所のそのまた先に、今まで通り過ぎた際、見てきた松よりも一回り以上大きい松が二本、左右対称に佇んでいて、その木の麓からこの松林の闇に一閃の光が差し込めていて、そこがこの松林の出口だと岳は確信した。

 辺りを促しながらその場へゆっくりと足を進ませていき、その猛々しい松の麓へたどり着くと、光が指す隙間が、先に立っていた場所から眺めていたより大きなものだと感じた。

 たどり着き立ち止まった今、背中から寒い感覚が這い出てきて、ふと振り返ってみてもそこには月の光に薄く照らされている空間しかなかった。

 不可思議に思いながら、再び足を向ける方へと視線を移すと、その左右の大松から白い霧が交差するように噴出していた。その霧が渦をまくようにぶつかり合い、それは次第に人型と化していく。

 岳はその有り様に目を見開きながら見尽くす事しかできずにいると、その霧のような、煙のような人方から、まるで心を直接触れるような声で語り始めた。

「この地の民、岳津彦よ。汝の憂いを我が闇がしかと受け止めた。然らば、汝は…。」

 その霧のような者の発する言葉の先を岳は呆然と待ちわびていたが一向に言い出さない。ここに現れるという事はこの松林の何かの精霊である事には違いないのだが、今やはり我が心にどこか歪があるのか、その霧の人方が誰かとは分からず岳は徐に叫んだ。

「汝、何者じゃっ!!何故に我が前に姿を現したっ!!!まず自ら名を名乗る事が礼儀というものであろうっ!!」

 岳の金切声を、特に思う事無く、霧人は諭すように優しく呟いた。

「岳、感覚として我が分からぬ程、心此処にあらぬのだな?汝の描写を傍観していたが、致し方なき事…。」

 え…?この者誰だ?その言葉に岳は姿を後ろにたじろかせながら思った。更に霧人は言う。

「日々の事柄は辛く険しき物。耐え難きを耐え、偲び難きを偲べと我は汝に伝えよう。ただ今宵は…。」

 岳はこの闇に再び神経を研ぎ澄まさせながら、この霧人が発している言葉の含みを、我が五感の全てをかけて考え尽くした。

 岳は意識をはっとさせて、すかさず霧人の方へ視線を向けて呟いた。

「ま…まさか…。父上…?」

 岳の言葉に霧人は何も動じず、深遠とも感じる面持ちで立ち尽くしていた。

「汝がそう呼びたいのならばそう呼べばよい。我はこの松林の神。幾千年もの古より、ただこの地を治めているしがなき国津神なり。」

 霧人の諭すような言葉は、しっとりと濡れる大地のように染み渡り、いつしか岳の心は落ち着きを取り戻していた。

「貴方様がどう申されようと、我が父である事に変わりはございません。」

「ならばそれならそれでよい…。しからば岳よ、父の言葉を今、疑わずして聞けよ。」

「ははあっ…。」

 岳はすぐさまその場へと平伏した。

「今宵、この先に汝を待つ御仁がおられる。そのお方に心中を曝け出すのじゃ。さ、先を急がれるがよいぞ。」

 そうとだけ言い放ち、父の姿はその闇に溶け込むように消えていった。

 岳は感極まる心のまま、父の姿を垣間見たが故、止め処なく頬を伝う涙を隠すようにその場から動けず平伏したままであった。

 父の姿がない事を密かに確認し、涙を拭いながらその場へと立ち上がった。

 そして視線を前へと向けると、今まで父の姿で見えなかった我が母である瀬戸内の海が満月の光に煌き揺れている姿が視界に広がっていた。

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