第4話 序章 静かな海からの旅立ち

 崇神は小刻みに身体を震わせながら、少し青ざめた表情を誤魔化すように顔を揺らしていた。

 里は興奮の余り顔を赤らめさせながら叫んだ。

「大国主命…。めちゃめちゃ有名神じゃないすかっ!!!肩を抱いてもらって、その上、額にちゅーまで賜ったんっすねっ!!羨ましい…。というかずるいっすよ、すーさんっ!!!」

「ずるいとか言われてもだな…。まあ、そういう事でとにかく遠路遥々吉備へ行ってきた訳なんだわ…。」

「で、その娘とやらは見つかったんすか?」

 里の問いに崇神は腕を組み、困り果てた表情を浮かべながら遠くを見つめていた。

「いやな、さっちゃんよ…。一応俺も生きた神と世で謳われてる訳よ。やっぱり俺が行くとなると近辺集落、というか吉備国挙げての祭りになっちゃったんだわ。そりゃそうなるわって俺、正直思ってたもん…。」

 何故か崇神が抱えているらしい苦悩が里にははっきりと理解できずにいた。大国主命が仰せられたように、吉備に行けばその娘は簡単に見つかる筈ではなかったのかと思わざるを得ないからだ。

「結局見つからなかったって事っすか…?」

 崇神は深い溜息を漏らしながら力なく一つだけ頷いた。

「えっ!ちょっっ!!!まじっすか、それっ。うっわ!!ださっっ!!すーさん、それまじださいっすよっっ!!!」

 里は体を大げさに反らせ、指差しながら崇神をまるで嘲笑うかのように大声を上げて笑い転げていた。

 いくら心を許し、このような不思議な言語を交わす唯一の間柄であっても、あくまで家臣と天皇という絶対的な立場関係が覆る事などあってはならない。

 その里の蔑むような言葉と態度に、崇神は緩めていた顔をきつく引き締めて、大きく胸を張り、艶やかな声色で静かに言った。

「家臣、大里へ問う…。世を愚弄する気か…?いくら汝と言えど、その言動は流石に解せぬ…。」

 崇神の視線は、まるで首元に鋭い刃を当てられたように冷たく、言葉は巨大な鋼のように、硬く、重く、里に圧し掛かった。先ほどまで里に見せていた崇神の姿は今や跡形もなく、十代目天皇崇神の神々しい姿が家臣、大里の前へ君臨させていた。

 里は驚愕と後悔の念に表情を青ざめさせながら、すぐ様その前へと深々と平伏せた。

「家臣、大里。天皇、崇神様へ申し上げ奉り候。我が配慮怠る言動。誠に、誠に申し訳御座らない所存…。どのような処置も何なりと賜ります故、どうかっ!!どうかっっっ!!!」

 里は涙を流しながら必死に訴えた。お互いの立場を忘れ、崇神に行ってしまった自分の言動に対しての浅はかさが憎かった。もう元に戻る事など許されない。いっその事、ここで崇神の手によって叩き切られてしまう事が本望だと里は思った。

 平伏せている状態から崇神の姿は確認できないのだが、前の方から布が擦れる音が聞こえてきた。多分いつも崇神の右に置かれている鉈に手をかけ、我が身が切り捨てられる瞬間が訪れようとしているのだと意を決したその時…。

「さっちゃん…。やっぱこれ、やめにしない…?」

「ゑっ…?」

 その言葉に驚いた里は、すぐ様表を上げると、崇神は暗い目を浮かべ、まるで拗ねた子供のような表情で里を見尽くしていた。

「す、すーさん…。」

 里の言葉に少しだけ顔を綻ばせたが、まだ暗い目のまま、視線を外へと移した。

「さっちゃんの言う通り、はっきりとは見つからなかったんだ…。だってさ、若い夫婦なんて俺の前にどんだけか分かんないくらい現れたんだよ?流石の俺だってさ、誰が何って分かる訳ないじゃん?」

「た、確かに…。」

 未だに崇神の行幸へお供した事はないのだが、確かに世に君臨している生き神がその地へ訪れるとなると、先ほど崇神も言っていたように、かなりの人だかりができる事は安易に想像できた。生き神といくら崇められても、ただのおっさ…否、人間である。その群集の中で、大国主命が仰せられた『選ばれし娘』を見つけ出す事など皆無に等しい。崇神の苦悩も無理はなかった。

 しかしながら里は、先ほど崇神が発していた言葉の含みを聞き漏らしてはいなかった。

「はっきりとは見つからなかったって事は、何となくそれと感じる娘は居たって事すか?」

 相変わらず視線を外に移したまま、またもや力のない言葉で崇神は言った。

「何となく目ぼしく思う夫婦、何組かはいたんだけどさ…。つか、全然分かんねーよっ!!何か途中から居た堪れなくなってきちゃってさぁ…。」

 都の事を誰よりも案じているのは間違いなく崇神本人であるのは明白で、そんな中、一人きりで焦りながら群集の中に都を救う唯一無二の希望を探しあぐねていたのだろう。そう考えると、里も居た堪れなくなり、思わず大粒の涙が頬を零れ落ちた。

「すーさん…。心中お察し申し上げます…。」

「里よ…。分かってくれるか…。」

「ええっ…。分かります…。分かりますとも…。」

 ただの家臣である里と、生き神と世に崇められている天皇である崇神は、まるで旧友の如く共に男泣きに泣いた。

 夕暮れの日差しが二人の横顔を照らし、次第に宵闇がこの空間を支配しようとしていた。お互い視線を合わそうとせず、ただただ泣き腫らしている二人の耳へ不穏に鳴り響く鈴の音が届き、そこで再び二人視線を交差させて訝しい表情を浮かべた。

「むっ…、この鈴の音…。」

「ええ、すーさん…。これは…。」

 この神殿には邪神払いの為に用意されている結界が所狭しと敷かれていて、それが突破された際に鳴る警報音であった。

それを施した術士によると、それは硬く険しい結界であるが故、三千年先の邪神でも決して破る事の出来ない結界であると誇らしげに豪語していたのを崇神も里も記憶していた。

 先ほど崇神自ら、誰もこの場所へ立ち寄らないよう伝令を出した為、宮室は愚か、神殿内は自分達以外誰もいない状態になっているだろう。

 その三千年先の邪神さえ破る事のできない結界が何者かによって破られてしまったらしい今、邪神とはいえど神である事に間違いはない。人間、里が手をかける事は断じて許されず術もない。人の中で唯一、神との接点を図る事ができる生き神、崇神自身の手で何とかする他なかった。

 一つ一つ結界が破られる度、鈴の音がまた一つ、また一つ大きくなってくると共に、肌を焼くようなひりついた感覚と、緊張によってなのか、喉の渇きが酷くなってくる。その只ならぬ感覚を醸し出す気配が宮室の側に迫っていた。

「里…、来るぞ…。」

「ええっ…。」

 崇神はいざと言う時の為に術士に教えられていた印を組み、大鉈をその場で構えながら叫んだ。

「何奴っ!?我を天皇崇神と知っての事かっっ!!」

 その叫び声に反応してか、蒼白い光の一点が、素早く宮室へと入ってきて、崇神と里の前でゆらゆらと漂っていた。その光はまるで弱い蛍のように不確かに消えては点き、点いては消えてを繰り返していて、どう考えても三千年先の邪神さえも破れない結界を次々と破ってここまで辿り着いたとは到底思えなかった。

 暫く呆然とその光に翻弄されるように見つめ尽くしていると、その光から、聞き覚えのあるような、ないような…。男にしては高く、女にしては低い、どうとも何とも捉えられるような、そうでないような…。まるで冷気のように細く、しかしながら煌びやかな声が二人に冷たく振り注いだ。

「とうの昔から知っておるわ、愚か者…。崇神よ、久方ぶりではないか…。汝こそ我が精霊になりし姿を知らぬようだな。遺憾ともし難い男じゃ…。」

 崇神は暫くの間、思考を凝らした。確かにこの感覚…覚えがあるのだが、生を成して今に至るまででは確実に会ってはいない…はず。

「えっと…。本当にどなた様でしたっけ…?」

 情けない声を上げた崇神と、何だかよく分からない事が目の前で起きている為、まるで死人のような顔をしている里の顔を、蒼白い光は蔑むような視線で見つめていた。

 すると、蒼白い光はふと消え失せ、辺りの宵闇から更に深い闇を吸収するように玉の形へと密集していった。その闇の玉が密集に密集を重ね、先ほど蒼白い光くらいまでも小ささに変化すると、いきなり黒い一本の細長い線となり、次の瞬間、それはぼんやりと人体化していった。

「あ…あなたはっっ!!!」

「ええっ!?えええええええええっっっ!!!!?」

 全身黒の衣を纏い、赤と青の勾玉が首元で揺れていた。顔の辺りは薄暗い影に覆われてよく確認できないのだが、相変わらず蒼白い光を全身から薄く放たせながら呟くように言葉を発した。

「我が名は月読…。闇の世を支配する者なり。」

 月読命は天照大神の弟であり、素箋鳴尊の兄に当たる大神である。

 崇神とは直系故に本当はよく顔を合わしていても不思議ではない間柄の筈が、実の処、今の今まで全くと言っていいほど会う機会がなかったのだ。というよりも、月読命が一族の集まりに姿を現していなかったような気もしなくもない。一同もその事について一切触れる訳でもなかった為、特に気にする必要もなく刻は過ぎていった。

 崇神はふと、ある描写を感じて、意識をはっとさせた。

 螺旋状に形成されながら紡ぐ歴史という路が生み出す精神と刻だけの世界で、まだ崇神が崇神となる遥か昔、やっと一つの点として存在を表し始めたその時に、たった一度だけその他の神々と戯れる月読命のお姿を拝見した事があった。

 その時の状況描写はもちろんはっきりとは覚えていない。しかしながらどこか虚ろで、何故か混沌とした世界の真っ只中であり、不穏だけが漂うだけの描写だった事は感覚的に心に刻み込まれていた。

 そう、そのたった一度きりなのである。

 という事で、月読命は崇神に対して久方ぶりだと仰せられたのだが、はっきり申し上げると初対面の間柄に等しい。しかし、上のものが黒い烏も白かったと言えばそうなってしまうという事柄は幾千年前から覆す事のできない法則のようなもので、崇神はなるだけ作り笑顔を浮かべては、月読命へと言葉を発した。

「十代目天皇、崇神。月読命へと申し上げ奉る。久方ぶりの対面、誠に心麗しく存じ申し上げ奉る。して我に何用で世に降臨なされたか…?」

 その言葉に月読命は少しだけ表情を緩めた気がした。そして、首からぶら下げている勾玉に右手を絡めては優雅に遊ばせていた。

「崇神よ、そう硬くならなくてもよい…。汝の言葉で申せばよいぞ。して、汝の混沌とす心情を、世はしかと痛み入り、わざわざこれをここに持ち、今に至るのじゃ。さ、受け入れよ。」

 袂から仰々しいほどの彩色が施された鞘に収められた一本の剣を取り出した。それは紫立ちたる光を妖艶に放たせながら辺り一面を照らしている。

 月読命は崇神の方へと静かに近づき、それをそっと差し出してきた。

 それは建御雷神が用いて葦原中国を平定したという伝説がある霊剣の布都御魂であった。実はこの剣には逸話があり、大和の征服に対し、大いに役立ち、どんな荒神も退けるという…。そんな話をいつの日にか祖父から聞いた事があった。

 というよりも、それが何故ここにあるのか崇神は不思議で不思議でしょうがなかった。

「布都御魂…。えっ!?これ、拝殿の裏手の禁足地に埋められたと嘗て聞いた事あるんすけど、何で…?」

 月読命はいきなり高らかな笑い声を上げて、こちらを睨むように見つめた。

「その地へと我が巧妙なまやかしを施し、ここへと持ち去ってきたのじゃ。」

「だから、何故に…!?」

 分からないが故、いくら大神に対して崇神の突っ込みも鋭くなってくるのだが、月読命はそれに対して特に心乱す訳でもなく、相変わらず勾玉を弄ばせながら優雅な出で立ちを保たせていた。

「汝がその剣を剥ぐ今、その困惑から解き放たれるであろう…。」

「閲っ…!?まじすかっ!?」

 崇神はすぐ様鞘から剣を抜き、刃を天に翳した。すると闇の中で自ら光る刃に、ふと一人の女の姿が浮かんできた。

「こ…、こやつは…。」

 吉備への行幸の際、確かにこの者の顔を見たような気がする…。

 頭髪に季節外れの梅を指し、他の者が身に付けている衣とどこか違う、淡い緑の衣を纏い、神輿の側で平伏せていた女。その横には、実に挙動不審ではあったが、決して悪しき雰囲気を、というよりも妻に対して愛情の念だけを向けた純朴な男が二人肩を並べて深々と平伏せていたのを崇神は思い出した。

「この者達の名は弥生と岳津彦。揃いも揃って人の子のくせに仰々しく名づけられたものだな…。」

 崇神は暫く、刃に映し出された弥生の顔を見つめていた。

『この者が、大国主命が仰せられた世を安寧に導く選ばれし娘…。しかしこやつ…、誰かに似ている…。』

 ふと考えてみたものの結局誰かは思い出せなかった。

 それよりも今はこの不安を兎にも角にも拭い去りたい気持ちが先走り、選ばれし者が何故この者なのか、誰に似ているのか。布都御魂の是非や、月読命の真の思惑など、崇神の心の中から泡沫の如く消え去っていった。

「里よっ!!家臣一同ここへ呼んで参れっ!!!」

「はっ!!」

 わらわらと蠢く崇神と里の前へ、月読命は場を制するようにすっと手を翳した。

「まあ、そう焦るな。世が破壊した結界を元に戻さなければならぬからな。そう刻はかからぬから安心せよ。しかし…我が精霊姿のまま破壊する事ができる結界など、粗末の際み…。」

「えええっっっ!!!」

 三千年先の邪神さえ破れないはずの結界が、実はお粗末な結界だったという疑惑が…。否、もしかすると月読命の霊力がとてつもなく強いだけという仮説も十分考えられる。どちらにしても三千年先の邪神ではなく、今に存在する神に破られた事実だけは確かである。

 この事について後で更に着色させて考える事にしようと思ったその時、ふと崇神の心にもう一つの疑惑が憑依した。


『んっ?ちょっと待て…。邪神を退ける為に如かれていたはずの結界を「月読命」が決壊させてこの場へと…。』


 崇神ははっと顔を上げた。

 もしかするととんでもない事に気がついてしまったのかもしれないと、戦慄する心と峻烈な想いが交差し、不安感が心底からものすごい勢いで噴出している。

 この仮説が正しいとなると、もしかして、もしかしたらば、もしかする…。ここで狭爺ちゃんのあの時の詠った句を引用しなくてはいけない気がした。

いかん、そんな事を言っている場合ではなかった!!

 既に蒼白した面持ちに成り果てているだろう表情で月読命を眺めると、右腕を天に、左腕を地に弧を描かせながら直立不動のまま静止していた。それはまるで闇に浮かぶ美しい満月を彷彿させる構えで、妖艶に発していたはずの蒼白い光は、いつの間にかどこまでも透明に近い白へと変わっていた。

 二人はその美しい佇まいに息を呑みながら目を、否、全てを奪われていた。

 月読命が首を右に傾けながら細かく揺らし、身体の真ん中で力強く印を組んだ。すると、全体から発していた透明に近い白の光が色濃くなり始め、一瞬にして辺りを包んでいった。

 その時、今まで影が覆い被さって見えなかった月読命の表情が眩い光の中で映し出された。

「えっ…?まさか…正に…麗しい…?」

 その言葉を遮るように空間に広がっていた光が、宮室の真ん中へと集まってきた。そして刹那に辺りは暗澹に、そして蒼白い蜘蛛の巣のような光の線がその暗闇の中へと瞬時に描かれていく。

 月読命は相変わらず印を組みながら、静かに佇んでいるだけに見えているのだが、その場はまるで軽い地震が起こっているように小刻みに揺れ動いていた。きっとこの神の力に大地が連動させられているのだろう。

 蜘蛛の巣の形は宮室の壁を越えていき、多分、神殿の末端まで広がっていったのだと思う。肌がひりつく程の感覚や、今まで感じた事がないくらいの霊力が崇神の五感全てに伝わっていた。

 やがて、その蜘蛛の巣のような結界は甲高い妙な音を立てながら、天井の彼方へと突き抜けていき、そして再び静寂がこの場へと訪れた。

 その印の後に、どうとも言いがたいような煙が儚く感じるほどに立ち込め、二人は相変わらず息を呑みながら立ち尽くす事しかできないでいた。

 月読命は全てを見定めたように一つだけ溜息に似た息を吐き、そして、我らが人間と神を決別するように、それはまるで戦地に送りつける母の気高さのような、懇情の別れを告げる妻の表情のような…。いや、そこまで言えば大げさかもしれないが、心中を混沌とさせている口調で、月読命は叫んだ。

「崇神、先に如かれていた結界よりも幾度か程良き施しをしてやった。良きに計らえ。では、さらばじゃっ!!!」

 そしてその場所には薄笑う声と、まだ漂っている煙だけを残し、月読命の姿は風と共に消えていった。この闇へと入る月の光は、もしかしたら別れの名残惜しさが故なのかと崇神は勝手に思っていた。

 妖艶に放つ蒼白い光も、闇に寄り添う佇まいも。高くもなく低くもなかったあの声も、そして眩い光の中で垣間見た切なくも美しいあの表情…。思い出せば胸狂おしく、溜息が出るばかりで、このような想いなど、これまで生きてきた中で一度も経験した事がなかった。

 その場へ呆然と立ち尽くしていた崇神の側へと里が近づいてきた。

「一体…、なんだったんでしょうね…?」

「さあな…。」

 布都御魂の刃が月の光を捉えては、風に揺らされていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る