第3話 序章 静かな海からの旅立ち
確かあれは丑三つ時に近づいた刻に見た宵夢と感覚する。
私はただただ白い空間の中にいた。地面に足をつけて立っている訳でも、浮いている訳でもない。正しくそこに存在しているだけの、まるで自分がただの物体になっているような不思議な感覚…。
ふと、どこからともなく甘い香りが漂い始め、そちらの方へ自然と体は吸い寄せられていった。向かう途中、霧のような煙のような気体が私の体に纏わりついては渦を巻きながら通り過ぎていく。香りの正体はこの気体ではないかと嗅いでみてもどうやらそうではないらしく、やはりその更に先から立ち込めているようで、体は留まる事を許されず、そちらの方向へとゆっくりと運ばれていく。
気がつくと、どこかは分からないのだが、深い森の中の大きな木の下に立たされていた。確かもうこんな深い森など残っていないはずと思い、私は目を瞬かせながら暫くは辺りをよく見回していた。
深緑に濡れた葉と葉に醸し出される爽やかさや、濡れた土の輝き。鎧のように纏う気高い樹皮や、全てにしっかりとへばりついている青々とした雑草や苔など…。そこには想像も絶するほどの静寂に護られた時間だけが過ぎていて、この完璧といえる我が大和の森を創造している。一体ここはどこで、いつなのか分かる筈もなく、しかし確実に私がいる時代の森ではないという事だけは分かっていた。こんな凛々しくも気高い森は、すでに残されているはずなどないのだから…。
そう思うと、何故か嫉妬に似た感情に苛まれ、私は深い溜息をつきながらその場へとしゃがみ込んでしまった。
生き神の私がこの場所の神の化身である森全体に皮肉にも子供のように抱かれているのだ。それはそれは情けなくあったのだが、まるで母体の中で感じる温もりのような…、そんな事など露ほど記憶もないのだが、そう感じざるを得なかった。
ふと背後に何者かの気配を感じた。生物のような感触ではなく、濡れるように冷たく、肩に重く圧し掛かる耐え難い重圧が私の足を何歩か前に誘わせた。私に憑依しようとしている正体が粟を生じる想いに苛まれ、全身から生汗が噴出し、やっとの想いで後ろを振り向いてみると、葉が覆い始める枝の手前付近で、白い衣を纏い、私達と同じ美豆良で中肉中背の初老が薄く限りなく白い緑の光を纏い、怪しげな微笑を浮べて、浮かぶというより木に張り付くように姿を存在させていた。
私は暫くその初老の薄笑う表情を驚愕させた面持ちで眺めていると、その私の姿に暗澹させたのか、暗く、そして静かに、厳格に、でも優しく諭すような口調で語り始めた。
「汝は約束を破るつもりなのか…?」
私は初老の言葉の意味がはっきり言って理解できなかった。
「約束…?私はあんたには会った事は愚か、聞いた事も見た事もないっ!!あんたっ!一体誰だっ!」
初老の薄笑いは気持ち悪い程続いていた。まるで私の心を見透かしているように。
「我が名は大国主。嘗て出雲国を治めし者…。」
「えっ…?ちょっ…!!」
私の宮の裏側に聳え立つ三輪山に鎮座する大神の別魂がこの私の前に姿を現すなど想いもよらず、私は困惑した。
「えっと…えっと…。ちょ…。えっと…。」
その私の困惑する姿を舐めるように眺めた瞬間、不快を露にさせた表情で声を荒げた。
「この、だらくそがっ!!!」
「江っ…!?」
私は大国主命の発した言葉の意味が更に分からなかったが故、何を返すこともできず、ただ呆然と立ち尽くす事しかできなかった。
その私の態度に何かを感じた大国主命は、不意に優しい表情を浮かべてはやはり諭すような口調で、呟くように言った。
「あ…。大和者についつい出雲言葉を投げかけてしまった。実に済まぬ…。」
先ほどの威厳ある態度はどこへやら。今はただの優しい初老の姿でしか私には映っていなく、どこか親しみさえ感じてしまう程、父や祖父から聞いた敬意と畏怖を、今の私に降り注ぐ優しい雨が拭い去ってしまうほどであった。
「よくわかります。よくわかりますよ、ええ…。御国言葉が出るほど私を腹立たしく感じているのですね…?」
大国主命は大木に体を許しながら、その長い睫をそっと揺らせて少し寂しそうに遠い彼方を見つめていた。
「そんな単純な話でもないのだ…。」
「それは…どういう事でしょうか…?」
遠く見つめる大神の視線の先を見つめてみても、私には何も理解できず、ただ空虚がその場に漂うだけだった。すると大国主命は、毅然たる表情へと変わり私へと顔を向けた。冷たく硬い礫のような言葉を発される事を予想して、私も体を硬直させた。
「汝の祖、二ニギ命より受けた約束。我に変わりて、この地を安寧に導き、民を守るという約束が、今、違われようとしておる。我に再び天下を治めさせるつもりか。崇神よ…?」
「いや、その…。えっと、うん…。そういう訳じゃないんですが…。私も懸命に頑張っているのですっ!分かって下さいよっ!!!」
大国主命は、視線を外し、彼方の方向へ視線を向けた。
「汝、何もしておらぬではないか…。神々から視線を逸らし、民に背を向け、情けない面を晒しながら今を生きているではないか…。表をあげ、現を見よ。ならば汝がもたらす世は安泰に処するであろう。」
「表をあげ…現を見る…。」
私のしている事は一体なんだったというのであろうか…?懸命に政を施していたはずが、実は何もできておらず、この苦に陥っている我が時代は自分自身が仕出かしている描写だというのか?
もしそうであるとすると…。頭を掻き毟りながら私は再びその場へと崩れ落ちた。
「あああああああああああああっっっ!!!私は…私は一体何をすればいいんだっ!!どうすればいいのかっ!!!どうしたらいいのかあああっっっ!!!」
本当に何も分からなかった。絶望。その言葉が私に重く圧し掛かっていた。
懸命に走り抜けていたと思いきや、全く見当違いであった事実に至らしめられた時を想像して欲しい。誰しもの心にやりきれなさという不透明な感情が流れるであろう。
「崇神よ…。よく聞け。」
大国主命は透かさず下へと降り、私の肩を優しく抱きながら耳元で囁くように呟いた。私は相も変わらず体を震わせながら今は大国主命に体を預ける事しかできなかった。
「今すぐ吉備国へと行幸するのだ。」
「えっ…?吉備と申されましたか?何故に…?」
ここ大和の国から山を越え、大泉を渡り、平野を果てしなく歩き、やっとの想いで辿り着く事ができるだろう遠く離れた場所に在る吉備国。
そういえば私の叔父に当たる『彦五十狭芹彦命』が少し前に住むようになった土地でもあるのだが、私はこれまで特に行く事もなく、というよりも全くと言っていいほど未開の地…。
この有事の刻にそんな場所へと行幸を施す理由も意味もあるとは思えなかった。
抱かれている肩は妙に温かく、気がつくと取り乱していた筈の心は、嘘のように安定している事に気がついた。
大国主命の囁くような言伝は続く。
「汝の言いたい事は手に取るように分かるぞ。だがな、崇神よ…。今こそ吉備へと向かうのじゃ。行幸の際に汝の元へ若い夫婦が姿を現すであろう。その娘の方が汝の治める世を平らけく安んじめてくれる選ばれし娘なのじゃ。」
「選ばれし…娘…?」
「そうじゃ…。今すぐその娘を探しに吉備へ行幸せよ…。では、さらばじゃっ!!」
大国主命はそう言い放ち、私の額に口づけを施した。
その瞬間、辺りは限りなく白い光に包まれていく。大国主命の優しくも気高い笑顔も次第とその眩すぎる白い闇へと飲み込まれていき、やがて何も見えなくなった。
そして意識がはっきりし、辺りを見渡してみると、いつもの床間でいつものように就寝していて、その眩い光ではなく朝の優しい光に包まれている事を知った。
多分あの森は大国主命の心の中であったのではないかと感覚し、私はすぐ様三輪山の方角へと体を向け、深く頭を垂れたのだ。
そんな不可思議な夢を見たのだ…。
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