第2話 序章 静かな海からの旅立ち

 先に語った物語の少し前の話である。

 大和国(現、奈良県)では、国家挙げての大変な事態が全てを覆い尽くすまで蝕ばんでいた。

 日照りによる飢饉、水不足での飢え、所代われど起こりうる時代に対しての詐欺や侵害等。役人による不誠実の暴露。そして他国からの内渉ともいえる侵略等。日々このような事が度重なり、都は混沌を極めていた。

 金も何もない女は自ら春を売り、というよりも、食糧さえどうにかできなくなった家は必ずといっていいほど娘を手放し、これが今生の別れと涙する有り様であるらしい。男でさえどうやらその類の需要と供給があるらしく、まるで東京上野駅のとある男便所のあれこれであるようだった…。あれ?いや、こちらの呟きであるからお気に召されるな。

 今の都はとにかく混沌を極めていて、絶望や失望。偽り、裏切り。都に住む住民の目は暗く落ちていた。

 どこかのお公家様が、『そちよ、屋根裏に鬼が騒いでおるから退治して参れ』と告げ、その使いがそこへ出向くと、人ほど大きい溝鼠に食らい尽くされたという事件があったとかなかったとか…。

 その出来事を握り潰すなど、まだ非文明的とも言えるこの世界では朝飯前であり、民は四季の移ろいに抗う事もなく日常を過ごしている中で、毎日妻に微量の毒を盛られている気の毒な夫のように、少しずつ少しずつ全てが蝕まれていき、今に至らしめられている訳である。

 この時代、法というある種、人に対して都合のいいものなど定められている訳もなく、多種多様な理由で集中する都では、人が孕む欲望の根源が無法地帯を生む事などいつしか必死なのであった。

 まあ、この時代から数百年後にどこかの馬小屋で産まれるらしい変なおっさんによってその法治国家の安泰はもたらされる話なのだが、今は先の物語…。この時代の人類に語ったとしても白昼夢を見せるような話なのである。

 嘗て、狭野尊が日向(現、宮崎県)から東方の素晴らしい土地を求め旅立ち、兄上の死、他国の神々からの翻弄や妨げ。身内からの裏切りによる人々の死や困惑、その他諸々。様々な描写を経て悲願の神武東征を達成した事により、辛酉の年、紀元前六百六十年。狭野尊は大和を治める初めての王である神武天皇(すめらみこと)となった。

 それから遡ると現在は約西暦三三〇年、四世紀半ばの話である。その時から言うとおよそ千年の月日が流れている事となる。

 十代目天皇として即位したその時代の覇者崇神は、嘗て感じた事のない感情に苛まれ、激しく頭を抱えていた。

 先帝から託されたこの大和国が、確実に在ってはならぬ危惧に瀕していて、我が代にして滅びの一途を辿っているというまさかの現状態が崇神の心を痛めているのであった。

 いつもなら白い布に囲まれた空間に余裕綽々に悠然と座っているのであるが、ここ最近はどこか落ち着かず、大勢の使いの者が頭を垂れ、腰を割り座る空間に、その生き神と伝わる姿を普通に晒し、まるでそこら辺で生活する人のようにぼんやりと遠くを眺めながら、嘆きに似た呟きを口走る日々を余儀なく送っているのであった。

「誰か、誰かおらぬか?」

「はっ…。」

 確実に表を上げようせず、即座に崇神の側へと身を寄せたのは、他の家臣から実は崇神の側室の類ではと噂を立てられている、最も崇神からの信頼が熱い臣下である『大里命』であった。

 崇神は既に夕暮れ迫る闇に表情を隠しながらも、憂いを帯びた口調で呟いた。

「里か…。よくぞ汝が世の側に参ったものじゃ、良きに計らえ。」

「はっ…。」

 他に誰が天皇、崇神の側を立ち寄れようぞという核心が里にはあった。しかしそれは敢えて今は伏せて、小気味よく返答してみせた。

「この大和に巣食う邪鬼を即座に退治して参れ…。世の命であり、切望でもある…。里よ、託したぞ…。」

 今がこのような有り様に至り始めた刻から、崇神はこのような事を里に命じるようになった。それは幾度となく命じられていて、その度に里は途方に暮れながら右往左往する事しかできなかった。実は崇神が憂うこの邪鬼の正体が何であり、何故にここまで至らしめられたのか里は薄々感づいていたのだった。

 邪鬼…。それ即ち、誰もの心底に必ず存在する闇であり、それに心を支配された人が悪の仮面を被り、全てを破壊し尽くす。

 ならば何故民がその心の闇に屈し、悪と成り果ててしまったのか。この世の中の状況描写では致し方なく思わざるを得ないのだ。

 以前いつの日だったのか忘れるくらい雨はなく、民の決死たる雨乞いも、水の神である網象女神と於加美神は、何故か遥か彼方の方角へ呆け眺め続けているだけで、寝ても覚めてもそれに応じる事はなかった。

 見てみ見ぬ振りを頑なに続けていると言ってもいいほどである。

 多分この出来事が民の心をより深く傷つけてしまったのであろう。神に見放された民の信仰心は極度に薄くなり、それと共に神々も暖かな視線で民を見守る事はなくなった。

 どうしてその二つの神がそうなってしまったのか、今は謎であるのだが、物事に因果は付き物である。大体はこのような時、その時代の覇者である天皇が神々の話を聞き、事無きとするのが定説であるのだが、今回は崇神でさえ知らないまま悪しき事が度重なり今に至っている訳で、それは前代未聞の事件と云っても差し支えない。

 神と民の想いが相まみえないまま刻々と時が流れていくような便利な時代ではない。

 神々に見放された今、相変わらず灼熱地獄のような日は続き、森の湧き水も枯れ、木々は死に絶え、何の罪もない動物達さえも人間と同じように裁きを受ける羽目となった。やがて肥沃だった大地は全て、その面影さえ残さず荒野と為れ果ててしまい、皆が皆疲れ、悲しみ、心の闇はより深さを増していった。

 里はそのような事を思い、頭の中で言葉を思いあぐねながら崇神の横顔をじっと見つめていた。

「里よ…。どうしたというのじゃ…。世の命が聞けぬというのか…?」

 崇神の言葉で我に返った里は、焦りに焦ってとりあえず口から言葉を出任せた。

「家臣、大里。天皇様へ申し上げ奉り候。必ずやこの私めがこの世に巣食う悪しき鬼を成敗して参ります故、暫し刻を賜る事お許し召されよ…。」

「うむ、よかろう…。」

 崇神は少し安心した面持ちで悲しげに笑い、相槌を漏らした。

 その言葉に周りに居た家臣達は軽く舌打ちを鳴らしたのを里は聞き漏らさなかったが然程気にもならない。今はこう言うしかできず、崇神もこの言葉が欲しいだけという事を十二分に理解していたからだ。

「皆の者、表を上げよっ!」

 崇神の言葉に皆、動作を合わすようにざっと音を立て、体制を立て直し、一斉に地を這わすような声を上げた。

「はっ!!」

「今は里と二人きりで都の将来について語り合いたい。皆の者は素早くこの場を立ち去られよっ!!」

 その言葉に皆から舌打ちや歯軋りや溜息のような音が密かに聞こえてきたが、崇神も里も気にも止めない様子でその場を見つめていた。すると、どこか観念というか覚悟というか…。皆はすごすごとその場を立ち去っていき、この空間に二人だけとなった。

 そう言えば宮室の側で二人の会話に聞き耳を立てる輩も時折いたのだが、息遣いからその者の気配など悟る事など容易で、崇神自らその者を叩き切るという描写が幾度とあり、それからというもの、命在っての物種と皆は黙って立ち去るようになった。

 そして崇神の伝令が上がるまでその場へ寄り付く者もいなくなったのだった。

 こういう事が原因で、里は他の家臣から激しい嫉妬の炎を燃やされ、疎まれ、暗く邪悪な噂を立てられては嘲笑われてしまう結果に至ってしまっている訳なのだが、里は別に崇神の側室でもなければ、特別な懐刀という訳でもない。強いて言うなれば、皆に必ず聞かれてはいけない、と言うよりも理解されない言葉で唯一会話できる間柄であるのだった。

 何故にそのような言語でしゃべれるのかというと…強いて言うなら洒落とノリであると今は語っておこうか…(笑)。

 それを謀る為に皆の前では信頼関係が絶対的なものと確信させ、二人の間に少しでも入り込めないようにしているだけであった。

 近くに誰もいない事を感じ取った瞬間、崇神は即座に撫で肩を更に下げながら深い溜息を漏らした。

「さっちゃんよ…。何か俺、色々疲れてきたわ…。ここのおっさんらは頭固い奴ばっかりでホント困るわ…。網ちゃんも於加ちゃんも何で怒ってるのか全然教えてくんないしさ。多分あれ、女の子の日でイライラしてたの国民にばっちりあたっちまって、後に引けなくなっちまったんだと思うんだよな…。どう思う?」

 どうやら相当ストレスが溜まっているらしく、唾を吐き散らし、顔を歪ませながら崇神は呟いていた。確かこの人、今は齢五十五くらいだった筈で、歳の割には何故こんな渋谷の道端で座り込んで話している若者のような喋り方をするのかと里は常々疑問に思っていた。

 否、渋谷って何だっけ?まあ、いいや…。

 里は凛々しい眉を情けなく垂らし、困り果てながら言った。

「すーさん、それはしょうがないっすよ。分かる奴なんている訳ないじゃないっすか。あ、それよりも、ほんとこれからどうしますか?僕、鬼退治つっても人を殺すなんて無理っすよ?いやいや…、絶対無理無理っ!!親父には散々打たれましたし、右頬殴られたら左頬も差し出しますもんっ!!」

「いや、そんな事聞いてるんじゃねーってっ!!あの姉ちゃん達の機嫌を取り戻すのどうしようかって聞いてんのっ!!ほんと、何かずっとヒステリックだしさ、ひいひいひいひい…、えっとどれくらいだっけ…。とにかく狭爺ちゃんに聞いたら静かに笑いながら一句詠んでやがるんだわ…。もしかして、もしかしたらば、もしかする。だってさ…。馬鹿じゃねぇのっ!!」

「神武先生の事を悪く言うの流石にそれはまずいっしょ…?結局それ、自分否定してるって話になるんじゃないすか…ね?」

「さっちゃんまでそんな事言う…。こないだ天照婆ちゃんにも同じ事言われたばっかだよ…。だってさ…、マジ大変だってば、俺の立場!ちょっと助けてくれてもいんじゃねって思う訳さっ!」

「すーさん、そんなどこぞの民謡みたいに陰踏みながら堂々と語らなくても…。網象さんと於加さんも今だけだと思いますけどねぇ…。あ…。」

「どしたの?さっちゃん…。」

 色々と思い出してみるとこの御二神だけではなく、他の神々もどこか挙動不審な行動を示しつつある事を里は先日思ったばかりであった。しかし、今は崇神にその事を告げると余計に不安を煽ってしまう可能性があるので言うのをやめて何とかその場を誤魔化した。

「あ、そういえば少し前に行った吉備国の行幸どうだったんすか?というか、なんでまた吉備になんか行ったんすか?」

 崇神は少しだけ渋い顔をしながら腕を組んだ。

「あ、あれか…。いやな、さっちゃんよ…。実はその話の少しばかり前に妙な夢を見たんだわ…。ちょっと聞いてくれるか?」

 里はごくりと一つ生唾を飲んで崇神を見つめた。


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