古今叙事大和本紀

岡崎モユル

第1話 序章 静かな海からの旅立ち

 岳津彦は静かな海を眺めていた。

 

 ここ吉備国(現、岡山県)から広がる瀬戸内の海はいつも潔白に感じるほど穏やかで、いつ創造されたか分からないほど太古昔から人々の営みを優しい瞳で見つめているのだろう。

今は何時であり、我が誰なのかさえ分かる訳も、分かる筈もないこの世界。その時々にも様々な描写は存在し、消えては生まれ、生まれては消えていく。そして時代を紡いでいく。生きとし生けるモノの想い達を馳せながら…。

 

 時は夕暮れ。鈍色の光からもたらされる木々の影が淋しそうに遠くへと伸びている。もうこんな刻に至っているのかと岳は思った。

 一日、田畑を耕し、漁をし、上がった物を近くに住む者や、近隣の集落へと運び、物々交換をする。上がり高から換算すると増える時もあるが、やや減る事もある。しかしそれはどうでもよかった。ただ、お互い何もないよりかはいくらかマシであるからだ。豊作の時もあれば不作の時もある。ただそれだけである。だからこそ、神々に日々感謝をし、祈りを捧げなければ我が生活、否、そんなものではない。人間として成り立たないのだ。

 空を眺めながら風を薫り、海に抱かれながらも大地を感じる。自然とは神そのものであり、その絶対的な力に我々は生かされている。

 だから、夜明けと共に起床し、朝日へ向かって深々と祈りを捧げ、一日の感謝を祈りながら日没と共に就寝する。時折、近隣集落から正に法外(!?)、と思われるほどの物々を徴収される時もしばしばあるのだが、ただただ山賊や海賊からのミカジメを集ってきているのを岳は知っていて、それを素直に払う事により平穏無事の生活がより約束される事も十二分に理解していた。我が妻である弥生姫との平和な日々が約束されるのだから安いものである。

 漆黒の闇が海岸の岩場に張りつき始めた事に漸く気がついた岳は、妻が首を長くして待っている我が家へと帰る事にした。

 想い馳せる妻にただ海を眺めていたと素直には流石に告げられない訳で、こんな時の為に持ち帰ると必ず歓喜するであろう薬草をそれなりに拾っていたのだ。

 我が家はこの砂浜に寄り添うように覆い茂っている松林を一里(約4km)ほど縦断したところに細々ながら在り、他よりも粗末な縦穴式住居だと訪れた人々に笑われたりもするのだが、妻から文句一つ聞いた事もなく、二人が穏やかに過ごすには十分すぎる空間を所持していると我ながら思えている為、周りの意見などてんで気にならない、寧ろどうでもよかった。

 自分達が納得していれば、そこは偉大なシャーマンが構える神殿とそう変わりもない屋敷と感じていた。

 そんな事を考えながら光も何もない漆黒の闇が覆い被さる松林の中を切り裂くように足を進めていた。確か月明かりが出ていたはずだが、こうも葉と葉が重なり合うと、最早ここは海の奥底と大差はないのだろうと常に歩きながら思っていた。

 そんな中、岳の前に姿を表したのは猪の姿に化けた風の精霊である『春日』と、狐の姿に化けた火の精霊である『珠子』であった。お二方とも血相を変えてこちらへと走り寄ってきた。

「どうなされた?」

「岳津彦…。先を急がれよっ!!」

 精霊のはずなのに何故か息を切らしながら珠子が言う。

「だから、どうなされたのじゃっ!!」

 いつもながら雄々しい視線を保たせながら冷静沈着に春日は言った。

「トゥースっっっっつつ!!!…。や、これは失礼…。汝の住まいの側がどこか不穏なのじゃ。兎にも角にも急がれよ。」

 こやつ、やはり冷静ではなかった…。しかしながらこの森の守り神とも言えるお二方が血相を変えているのだから並大抵の事が起こっているのではないと思った。

「理解した。言伝…済まぬ。」

 星の位置が変わらぬ内にと足早に松林の間を走り抜け、我が住まいへと一目散にたどり着いた。

 不穏な雰囲気は確かに空間を漂い、空気さえまるで硝煙が撒かれているように重く苦しい。 

 松林から出た所は住まいの真裏を位置していて、入り口付近には贅沢にも松明が焚かれているのであろうか、光に映し出される複数の人とそして数匹の獣の影が風と共に揺れ動いていて、只ならぬ気配に岳は息を呑んだ。

 いざという時の為に随時腰に装備している短剣を手に取り、抜き足差し足で入り口までにじり寄っていった。

 複数存在している気配や醸し出す不穏な雰囲気の割には、余りにも静寂で、緊迫はしているが切迫している様子でもない事にどこか違和感を覚え、住まいの角から覗くように横目で入り口付近を確認してみると、さっと見だけでもそう思えるほど実に毛並みがよく、恰も血統のよい白馬が三頭と、我が世界では成人男性の儀式として施される縦や横に何本も湾曲された刺青を召し、耳横で上品に束ねられた髪結い(以後、美豆良)と、鮮やかな朱色に染められた羽織を纏う男が三名。そしてその男達と相対して立っているのが我が妻、弥生姫だった。

 男達の召している服装から、というよりも醸し出す雰囲気から自分とは全くもって違う世界に生きている面々であると、いくら滔々と流れる日々の生活だけを生きている岳にも流石に理解できる。

 それよりそんな方々が我が妻に何の様があるというのだと疑問を感じざるを得なかった。

 弥生は複雑な表情を浮かべながらもその男達と視線を交わすだけでその他、何をしている訳でもない。

 しかし、揺れながらも映し出されている我が妻の横顔は美しかった。

我が夫婦はまだ数え十五の刻しか生きていない、成人の儀式などまだまだ程遠い若輩者達。その男達の雰囲気と肌の感じから比べてみると、当たり前なのだが弥生は随分若く幼かった。普段そうは感じないのだが、今の今だけはそう思え、弥生が愛狂おしく思えて仕方がなかった。その瞬間、思考より感情より足が先走り、身体を前のめりにさせながらも、男達の前へと短剣を構えながら踊り出た自分がいた。

「弥生っっっ!!!!」

 その叫び声さえ動じる事のない男達の冷たく鋭い視線が岳の身体を切り刻む。

 松明の光から醸し出されている光と影の揺らめきが、よりその場の雰囲気を混沌とさせている。弥生もこちらに視線を向けたが…、何故か表情を変える事もなく、寧ろ男達と同じような表情でこちらを眺めている。


『何故だ…。何故なんだ…。』


 弥生は今まで感じた事もない程鋭く、美しくも悲しい視線のまま岳を凝視している。

 この短剣を構える先は弥生ではなく、男達である事など分かってくれている筈なのに…。その表情の意味など考える事などできず、岳はもう一度叫んだ。

「弥生っっっ!!!!」

 岳のもう一度荒げた声に反応してか、白馬達がやけに嘶き始める中、一人の男が弥生に話しかけた。

「弥生君、これ以上はもう待てぬ…。では、参ろうか…。」

 男はそう言うと、弥生の背中にそっと手をやり、馬の方へ誘った。


『ん?ちょっと待てよ…。こいつらは弥生をどこに誘おうとしているのだ?というよりも、夫である私に対し、何の説明も解釈もなく我が妻を連れ去るなどどういう了見なのだ?どこの誰であろうが解せぬ…。』


 言葉にならない叫び声を上げながら、岳は男達へ短剣を振り翳した。

起こらざるをならぬ。このような有事の為に、森の精霊達を相手取り、密かに毎日剣の稽古をつけてもらっていた事もあり、剣術には大層自信があった岳の剣が鋭い一光を浴びせかけた。


『ぶおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉおんっっっ!!!』


 男は岳の剣の舞に上瞼を大きく揺らし、優雅とも余裕とも思える程、薄笑いながら言った。

「ふっ…。その形、珠の剣一門ではあったとはやるではないか…。しかしながら、岳津彦よ…。うりゃっっっ!!」

 雷の如く相手の視線を翻弄させる岳の剣の動きもやはりその男の前では赤子同然で、岳の鋭く刺す剣の動きをあたかも予測できているかのように銅剣の柄を下から差し出し、動きを制すると同時に更に上へと力を加えると、岳の剣は明後日の方角へと弾き飛んでいき、見事住まいの天井へと突き刺さった。

 それはまるで首だけ刺さった人の身体のように、規律悪くぶらぶらと揺れながら奇妙な音を上げている。それに合間って松明がもたらす光と、弥生を護りきれないであろう痛み。連れ去られてしまう恐怖と、我が喉に流るる生温い唾液と、全身から吹き出る冷たい汗。

 とてつもなく堪らない感情になった岳は、弥生が我が髪を洗髪してくれた後にいつも不器用にも結ってくれていた髷さえも引き千切るように、頭を掻き毟りながら心のまま叫んだ。

「ああああああっっつっつっつ!!!もうっっっ!!!一体何だというのだっ!!!今、私に何が起こっているというのだっ!!!!。」

 頭を掻き毟る行為だけでは収まらず、まるで駄々を捏ねる子供のようにその場に転がりながら声にならない叫びを上げていた。その行為を見るに見かねて男が声を荒げた。

「岳津彦よっっっ!!!!今は我が大和が有事の時なのだ。大王の命にして汝の妻を連れ去るっ!!さ、弥生君…。」

 その男が手を差し出す方の馬へと自然と誘導されながら一つだけ頷く弥生。愛らしく健気で、しかしながら悲しい表情でどうしてもやはり…美しかった。その誘導される姿を傍観するように見つめていると、先ほど男が叫んだ言葉が頭の中に広がってきた。


『大和とは何だ…?有事とは何なのだ?我が身や我が生活に何の関係があるというのだ?というよりもこいつらは一体なんだというのだ?もう一つ言うと弥生は何を考えてそうしているのか…?否、それが一番大切なのである。どういう訳か弥生はこいつらに連れ浚われそうになっているのだ。その経緯だけでも聞いておかなくてはならないのではないのか。というよりも、聞かずして引き渡すなど漢として言語道断!

大王さんという見た事も聞いた事もない輩が何なのか知らんが、どういう了見で我が妻を必要としているのか、理解できるように説明して頂くのが筋というものではないのか…。』


 そう思うとやり切れない感情だけしか湧き出てこなかった。

 一度大きく息を吸い、そして吐く。そして、いつも狩でする兎に投げる礫のような細く強い言葉で、これが最後だと理解しながらも声を上げた。

「弥生いいいいいいいいいいっっっ!!!!」

 こちらを見たか、見なかったのか…。弥生は暗い瞳のまま無意味に一つだけ頷き、男の手に詰られるように馬に乗った。

 我が声に何故に反応しないのというよりも、この理不尽な描写がただただ許せなかった。一体何に翻弄されているのかという事を岳は頭を抱えて考えた。

 自分の身に最近起こりうった出来事の本末を…。

 

『えっと…。何かあったっけかな…。確か兎と間違えて泉の神を撃って怒られたな…。でも、それは解決した筈なんだけど…。あ、もしかして、弥生を嫁にしようとした地の神が何かしら上告してこうなっているのか…?否、だったら弥生がこんな表情を浮かべるはずがなかろう…。思いつかぬ…今の私には…。』


 気がつくと、弥生の乗せた馬がこの場から悠然と立ち去る姿を見て思わず地面に這い蹲ってしまった。ただ今は地面に手を打ちつけながら泣くしかできない。理不尽なできごと故に。

 岳は思わず身体を起こし、血が噴出しそうな思いで、もう一度力を振り絞り、叫んだ。

「弥生いいいいいいいいいいっっっ!!!!」

 光も届かぬ闇の中で、背姿のまま、弥生が腕を上げたのが見えた気がした。

私には親など生まれた時からおらず、弥生とは未だ子も成さず、その弥生さえ連れ去られると他には何も残らない。岳は本当の孤独を噛み締めて地面に這い蹲るしかできなかった。


『いや、待てよ…?確か二月前に集落の長から大王とやらがこの地を『行幸』すると伝言が届き、兎にも角にも表を上げずに頭を垂れているだけでいいと言伝を賜った故に、どうにもこうにも理解せずままその場へと平伏せていた時、私達に「表を上げよ。」と言い放ち、偉そうな視線で私達を、というか妻を舐めるような視線で見ていたあの輩が噂の大王で、我が妻を嗜めるだけ嗜めて大和というどこか知らん国に帰っていったのか?そんなに我が妻が美しく、羨ましかったが故に、その後使いの者をこちらに寄こし、理不尽にもこう私達を引き裂こうとしているのか?どういう訳か弥生さえもその口車に乗り、抗う事もなくついていこうとしている。

という事はだな、我が妻が大王の目に留まったのは百歩譲ってだな、男と女と男と書いて嬲るというように、結局我が妻は大王の…、もしかするとその取り巻きまでもに、ただただ手篭めとされに連れていかれるだけという話になってくるのではないかっ!そう考えるとやはり解せぬっ!何の説明もないまま連れ去られて、納得できる訳もないだろうっっっ!!!』


 そして誰もいなくなった場所に背を向け、海岸からの帰宅路である松林へと急いで引き返した。とにかく誰かにこの事を打ち明けたい。心の叫びをぶち撒き散らしたいと思った。

 海岸に存在する岩に時折降臨するあの女神がいる事を今だけは信じて、泣きながら走った。漆黒の闇は寧ろ研ぎ澄まされた空間と思え、岳は月を欲しがる子供のように懸命に闇を駆け抜けていった。

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