第6話 序章 静かな海からの旅立ち

 潮風が岳の髪を靡かせては消えていく。砂浜は月の光と戯れを見せ、白金のように輝いていた。

「なんと素晴らしい…。宵中の海がここまで美しい姿を見せていたとは…。」

 その美しい景色に心奪わせながらぼんやりと足を進ませていると、いつしか砂浜の端までたどり着いていた事に気がついた岳の前に、大きく聳え立つ岩山一つ、薄く紫立ちたる妖艶な光を放たせていた。その岩からこちらへ優しく見つめる視線のようなものを感じ、何を思う事もなく岳はその側まで歩み寄っていった。

 そして天を仰ぎ、何気なく岩肌へと手を触れると次の瞬間、これまで聞いた事がない旋律のような美しい声が岳の頭上へと降り注いできた。

「貴方、どうしたの?そんな鬱々しい顔をして…。男の子でしょ?その男前の顔が台無しだわ…。」

「えっ…、何っ!?」

 その声に岳は驚愕させ天を再び仰ぐと、そこには麗若き女人が一人、左手を腰に当て、柏の葉を右手に持たせ、妖艶に腰をくねらせては耽美な睫をゆっくりと瞬かせながらこちらを眺めるような視線で見下ろしていた。

 二千年後の言葉を又度用いると、それはまるで八頭身でモデル並みのプロポーション誇る、目鼻立ち豊かで、バッチリメイクを決め込んだお姉さ…、否、姉君が、岳の前へと姿を現したのだった。

 柔らかい声が、岳へと変わらず降り注ぐ。

「男の舐めるような視線には慣れてるけど、そんな訝しげな視線で私を見るのだけは心外よ。…まあ、いいわ。今からそちらへ行くから…。」

 そう言葉を発しながら、まるでふわりと舞うような出で立ちを表現しながら岳の元へと降りてきた。父が申していた御仁とはこの者なのだろうかと思ったのだが、今の岳には如何せん艶かしく、こんな不埒な女人に心を曝せと言われても、何を伝えれば良いのか…。

 全身に悪寒を這わせながら、その怪しげに醸し出す雰囲気をひしひしと感じながらもその姿をまじまじと眺める他なかった。

「貴方、ビビりすぎっ!!」

「えっ!?ビビっ…!?」

 岳の反応に「きゃはは」と両手を頬に当て、まるでお転婆と思えるほどの笑い声を上げながら女人は再び言葉を発した。

「あ、気にしないでね。そんなに驚かなくていいのよ?貴方、お父上からも私の事聞いたでしょ?だからっ!!」

 その女人の言葉を聞いても、父が何故にこの者へ私を誘ったのか、今のところ全く検討もつかない。

 岳は考えれば考えるほど、感じれば感じるほど訳が分からなくなってきて、徐に腹の底から叫んだ。

「汝、何奴っっっ!!!!」

そんな岳の情緒不安定な姿を、まるで癖のように右手を頬に当て、困り果てた面持ちで女人は言った。

「そんな怖い顔浮かべちゃって…。まあ、そこもいいところなんだけどね…。いいわっ!名乗ればいいんでしょ?名乗ればっっっつ!!」

 そう言い放つと、辺りが唐突に凛とした雰囲気へと変わり、その女人の先ほどまで見せていた妖艶な立ち姿は、神々しく感じるものへと様変わりしていた。

 そして女人は誇らしげに言葉を発した。

「我が名は天鈿女。民の心の隙間を埋めしもの。」

 辺りは緊迫した雰囲気に包まれているものの、月の光だけは変わらずその女人を照らし出している事に岳は何故だか違和感を覚えたが、今はそんな事を気にしている場合でもない。

 この登場の雰囲気からこれまでの経験を元に感覚すると、現役女神が実際この場へと降臨し、卑しくも民である我に語りかけてくれているという、全くもって信じられない出来事を目の当たりにしている瞬間であった。

 しかもこんな豊満な体つきをした女人に視線を向けられている事など…。

 そういえばと今こそ思い返してみると、これまでの人生の中で女人とまともに接した事は愚か、話した事さえなかった。物心がついた頃には村の外れでひっそりと暮らしていた岳に女人と関わる機会などある筈もなく、そして今、妖艶な雰囲気で、耽美な長い睫の、見た目麗しく、豊満な体つきを誇る女人から放つ熱い視線に、岳の心は篤く、切なくなるしかなかった。

 浮き足立っている心情にふと、真面目一徹である本来の自分の声が聞こえてきた。


『この女人は神である。父上に何かを伝わり、我が声を聞く為だけに降臨なされた女神なのだ。父上の教えに基づき、この女神に全てを打ち解ければ良い。ただそれだけなのだ…。落ち着け、我、岳津彦よ…。』


 自らの声に意識を取り戻した岳は、とりあえず我も名乗り返さなくてはならないと思い、きつく瞳を尖らせて前を見たものの、やはりその女神の姿に心は揺らいでしまう。経験不足とはよくできた言葉である。

 やはり心此処に在らずというような心情のまま、岳はとりあえず口から言葉を出任せた。

「えーーーーーとっ。わ、我が名は、たたた、岳津彦と申す。うーーーんと。い、以後、おおお、お見知りおきを…。」

 明らかに尋常ではない面持ちで言葉を発した岳の姿に、天鈿女は何故か気を良くしたように「きゃはは」と天真爛漫な笑い声を上げ、満面の笑みを浮かべていた。

 笑う時、頬に両手を当てるのはこの女神の癖なのだろう。

 暫くは何故か嬉しそうに左右へと体を揺らしながら微笑んでいるだけで、この女神が登場した刻に持っていた筈の柏の葉も足元で同じように風に揺らされていた。

 掴み所のないこの女神を困惑しながら見尽くしていると、何かに気づいたように、はっと目を見開いて、頬に手を当てた姿を残したまま岳に視線を向けた。

 そしてみるみるうちに大粒の涙が零れ落ちそうに瞳を潤ませていき、辛酸舐めたような表情へと変わっていった。

「お父上から話は少しだけ聞いたの…。今、困ってる事あるんだって?どうしたの?」

 その言葉に我、至って冷静に想ふ。

『本来の降臨した意味を今こそ思い出したのだろう』と…。

 掴み所はやはり見当たらないし、時折、人の心を弄ぶ描写はあるものの、どこか愛らしく、憎めないこの女神の事をきっと嫌いにはなれないと岳は思った。今、我が鎖を解き放ち、この女神に心情を語らねば成らぬと思い、岳は意を決して言葉を発した。

「いや、天鈿女命、実は…その…。」

 まるで岳の声を相殺するように天鈿女の言葉が覆い被さってきた。

「私の事呼ぶの、アメちゃんでいいわ!」

 アメちゃん…。アメ…ちゃん…?アメは何となく分かるものの、『ちゃん』って何だ?全く持って知識の中にない呼び名の種類に困惑し、岳の回路は一瞬にして凍結した。

 幾ら思考してみてもやはり答えは見出せない。これまでの描写の中で、この女神が放つ天真爛漫さが故に、様々な事が流されていった訳なのだが、今こそ断固意見すべき刻が来たのではないかと厚く岳は思った。

「否、天鈿女命。アメはまだ理解できるものとして、『ちゃん』とはそれ即ち如何なるものぞ…?」

 岳の反応にどこか嬉しそうな面持ちで天鈿女は言った。

「えっ?岳の祖にもアメちゃんって呼ばれてるから、あんまり深い事気にしないのっ!?」 

 その言葉に岳の心はざわついた。その刹那、二人の間を遮るような風が髪を靡かせては消えていった。

「私の…祖?」

 やっとの想いで口にできた言葉にいとも容易く応えてきた。

「そうよっ!さ……、えっ!?」

 その鏡のような大きな瞳の中に、蒼白した自身の姿が見えたと思うと、すぐに目を細め、疑うように顔を傾けながら呟くように言った。

「岳ぇ…、実は自分の祖知らないとか言うんじゃないわよねっ…?」

 その質問に対してなら迷いなく答えられると思い、岳は自信満々に力強く頷いて見せた。すると…。

「えええっっ!?まじっ!?それ、まじ言ってんの!?つか、信じらんないんだけどっ!!!まじっ?ええええっっっ!!!?」

 天鈿女自身が爆発したかと思うほどの大声というか、奇声というか…。何よりも訳の分からない事を発しながらその場で乱痴気騒ぎを起こしていた。

それは無知に対して馬鹿にしている感じではなく、懸命に生きてきた人生そのものを愚弄されていると感覚し、流石の岳もこれには堪らなくなった。

 物心ついた刻には既に何も無く、雨の日も風の日も呻き声さえ立てず、たった独りで気高く駆け抜けてきた我が人生とは…。そう思うと我ながら居た堪れない感情が心底から煮えたぎり、気がつくと頬が涙に濡れていた。

 熱い涙は頬を伝い、暫くその場へと立ち尽くす事しかできなかった。天鈿女は相変わらず乱痴気騒ぎを続けていて、この涙模様はどうやら幸い気づいてないらしい。

岳は即座に顔を下に向かせて、腕で涙を拭い、深い呼吸を幾度か繰り返した。暫くすると脈は正しく打ち始め、気持ちも安寧に向かいつつある。

 漸く本来の落ち着きを完全に取り戻した岳は、口をきつく縛り、三角眼で睨むように前方へと視線を向けた。

「岳、もうその眼で私を見ないで…。」

「えっ…?」

 華のような息が薫る距離に天鈿女の顔…、というよりもその大きな瞳だけが岳の視界を支配していた。

 視線がぶつかり合う事暫し、岳の身体は岩のように固まってしまった。すると、みるみる内に岳の全身が赤くなったと思うと、瞬時に青くなり、次の瞬間岳は叫んだ。

「宇和嗚呼嗚呼あああああああああああっっっっ!!!!!」

 

『この私に何を仕出かすつもりなのだこのオン、…否、この女神は!このような事など、こんな不埒な事などあってはならぬっ!私はこの吉備国の猛々しき民、岳津彦なのだっ!そう、うん…。』

 

 天鈿女が立つその場所から跳ねるように飛び退いていき、激しい動悸に苛まれながら少し離れた砂浜へと落ちていった。その場へ身体を這い蹲らせて息を荒げては高ぶる心を治めようとしていた。

 しばらくすると落ち着きを取り戻し始めた時、背後に気配を感じた矢先、肩に手の温もりを感じた。

「ちょっと悪ふざけ過ぎたみたいね。うふふっ。」

 相変わらず無邪気な笑顔まま、天鈿女明るく声を発していたが、その反面、岳は再び心を取り乱した。せっかく落ち着きを取り戻しつつあったが、このような事を繰り返されると情緒不安定にならざるを得なかった。

 そんな事など露知らず、天鈿女の天真爛漫な言葉は続いた。

「うふふ、まあいいわ。そんな事より、本来の話に戻りましょ?一体何があったというの?」

 本来抱えていた問題も大切だったのだが、それよりもこの女神が発した先の話の方が岳には気にかかってしょうがなかった。

「いやーーーー。天鈿、否、アメちゃんさん?申し訳ないがその前に一つ、伺っておきたいことがあるのだが…。」

「ん?何?」

 爛々とさせた瞳に、岳は再び赤面させて身体を硬直させてしまいそうになったのだが、『我こそ吉備の漢ぞ』と奮い立たせ、自らを叱咤させた。そして岳は勢いに身を任せて言葉を迸らせた。

「我、我こそが吉備の漢っっっ!!!」

 嫌に冷静な瞳に変えて、天鈿女はその言葉に応える。

「え?そんな事など知ってるわよ?」

 思わず口にした言葉に我ながら又度、顔を赤面させた。

「否、あ、あ、あ、アメちゃんさん…。貴方に問う。私の祖とは、一体何者ぞ…。」

 その言葉に気を良くした天鈿女は、再び天真爛漫さを取り戻したように岳を見た。

「まあ、いいわ。嫌でも分かる時くると思うから、今は私の口から教えてあげなーいっっっ!!うふふふふ。」

その長い睫を幾度も揺らしながら、意地悪そうに上目遣いで岳を見ながら言った。

 岳は思った。


『何て意地の悪い奴だ…。』


 一瞬にして、五臓六腑から光が抜けていく感覚に陥り、岳の心はもぬけの殻になった。しかしながらそうなってもいられない。本題に戻らなければならぬのだ。

 岳は再び心に光を取り戻し、父の教えの通り、この女神に我が心を打ち明ける決意を固めた。と、その瞬間…。

「もう、じれったいわね。先に言うわっ!そんな戦、岳には係わり合いがあるの?」

 その言葉に岳は深く思い返せば思い返すほど、関係もなく係わり合いもない事だという結論にしか至らなかった。

「えっ?何故それを…?」

 困惑。覆いかぶさる感情が我が身を混沌とさせていったのだが、それを風の如く拭い去るような言葉が優しく降り注いだ。

「うん、知ってるわ。貴方のお父上から全て聞いているもの…。だから、もういい加減うるさい事言わなくていいのよ。」

 そんな事を言われても、やはりどうすればいいか分からない。だから逆に問うことにした。

「では、どうすれば…?」

 暫く沈黙が続き、岳の心も不安がやどり始めた矢先、視線が合ったと思うと、一瞬だけ片目を閉じ、軽く首を揺らせながら微笑んだ。そして、初めに見せた出で立ちで、我が未来を掌握するように易しく言葉を発した。

「んっと、岳、それ、ほっとけばいんじゃない?」

 その言葉には反論の余地がある。

「しかしながら、アメちゃんさん。山爺にも川爺にも日頃から世話になっているが故、この有事をほっとく訳にはいかぬのだっ!!!」

「んっ?だからって貴方、珠ちゃんの術を使って、貴方が知る民を殺めてもいいって話になるの?」

「珠子を知っておるのか?」

「当たり前じゃない、私を誰だと思ってるの?あの子親戚の子みたいなもんだから?」

 シンセキ?言っている意味はよくからないが、どうやら近しい間柄であるらしいから余計に自分の事を心配しているのだろうか。

「珠子にはいつも世話になっておるのだ…。」

「あの子、いい子だから、岳ならいつまでも優しく過ごしていけると思うわ。」

 右手に翳していた柏の葉が風に躍らせられていた。そして言葉は続く。

「大体ね、私想うの。川の水を巡って争うなんてどこかおかしいじゃない。て言うか、そんな人の手によって争う事なんて私には考えられないわ…。」

 その天鈿女の言葉でその戦の根本を理解する事ができたのだが、何故此処で理解しなければならないのかという感情が芽生えてきた。しかし、ふいに嫌な予感がして、岳は口を噤む。それは、その戦の根本が解った今、介入する必要もないという事に気がついたからである。それよりも解決の糸口を見出す事の方が最優先だと岳は思った。

「双方共に生きる路は無いというのか?」

「ある事はあるんだけど、でもね…。」

 長い睫を揺らしながら、遠くを見つめ呟くように言った。

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