第36話 最終章 残されていた手紙

 六月最後の土曜日。つまり二十九日の朝早く、私は京都駅から新幹線に乗った。


 思いもよらぬ私の帰郷に、両親は大層喜んでいる様子であるのだが、私の心境は当たり前のように複雑で、それに同調する気分は起きなかった。


『不可解な出来事に遭遇した探偵は、きっとこのような心境であるのだろう。』


 窓から流れる景色をぼんやりと見つめながら、そんな事を思い、時間を過ごしていると、いつしか岡山駅へとたどり着く案内が電車内に鳴り響いた。


 ここから在来線に乗り継ぎ、愛媛へと向かうのである。


 どうやら乗り継ぐまでに少しだけ時間があるらしく、ホームへと向かう途中にあったお土産売り場で、両親への手土産に、当たり障りのない物を選んで買った。京都で買えばよかったのだが、その時は先を急いでいてそんな思考に至れなかったのだ。気持ちが大分落ち着いていると私は思った。


 在来線ホームでしばらく待っていると、『瀬戸の花嫁』という大分昔の曲と共に、到着する電車のガイダンスが流れ始めた。


 幾人か私と車両へ乗り込んだ人がいたが、それ以上増える事もなく、むしろ車内はがら空きのまま、電車は出発した。


 車輪の音が心地よく、街を通り過ぎ、山を越えていく景色の中、「この風景は確か、見た事がある。」そう一人ごち、ぼんやりと眺めていると、GW、姫路へと送って貰った時に見た風景である事に気がついた。


 一カ月と少し前の話であるが、遠い昔のように思えてしまう。しかし、懐かしむという感情が心中、どこにも見当たらないのは何故だかどうして。

 只々、田舎の風景がひたすら目の前を通り過ぎていくだけだった…。


 山手に大きな観覧車が見えてくると、目の前に眩い光を照らしつけられた美しい群青のステージが視界に広がり、その中を電車は一直線に走っていく。


 再び陸地へと上がると、左には山間が、右には高校の時に買い物で幾度か訪れた事のあった街並み。確実に見覚えのある風景が私の記憶に語りかけてきているように思えたが、ただ、横目で見過ごし、何も応えない。


 私の心は既に地元に対しての思い入れはなく、唯一気がかりだった彼の想いも既にない。


 もしかするとそれはとても悲しい事なのかも知れないが、今を生き、輝かしい未来が確実に待っている私には致し方なく、そうしなければならない。今地元へと戻っている理由はただ、彼と決着をつける為。そう、それだけである。


 気がつくと嘗ての最寄駅、『川之江駅』へとたどり着くアナウンスが流れ始め、私は荷物を手に取り、デッキへと向かった。


 電車を降りると、紙工場が吐き出す独自の臭いと、流石に懐かしく思う景色が私を出迎えた。降りる人も少なく、自動改札機ではない改札を抜け、駅を後にした。重い荷物を抱えながら、実家までの少しだけ長い道のりを歩いていく。


 両親から連絡をくれと言われていたのだが、敢えて歩くのを選んだ理由は、この道の途中で彼のお店があるから…。


『お客さんがいようとも私には関係ない。だって、私の連絡を無視し続けている彼が悪いのだから…。』


 友人と自転車を並ばせ行った商店街。部活の昼ご飯を買っていたスーパー。お世話になった文房具店。そして、我が母校。全てが鈍色になってしまった情景を眺めながら進んでいくと、遂に彼の店の前へとたどり着いた。


 とりあえず店の横にある家の垣根に身を隠して、様子を窺う事にした。

土曜日にも関わらず駐車場には一台も車は止まっておらず、店内には誰一人と確認できない。以前はお客さんでごった返すほどの盛況ぶりだったはずなのに、この閑散とした雰囲気をにわか信じられなかった。

 それよりも彼の姿である。


『多分彼は今、奥にある部屋で休憩、もしくは何かをしているのだろう。ガラス越しに彼の姿を確認した後、店へと踏み込む事にしよう。これで最後。そう、最後なのだ…。』


 私は心にきつく喝を入れ、全身が心臓になったかのような感覚を懸命に抑えながら来る時を待っていた。


 いきなり鞄から激しい着信音が鳴った。私は驚いて、思わず荷物を放り投げそうになりながらも、何とか携帯を取り出しディスプレイを見ると、『お母さん』と記載されていた。


「はい、もしもし…。」

「椿、今どこにいるの?もう着いてるんでしょ?」


 何故か苛立つようなお母さんの口調。私は何とか気持ちを抑えた。


「うん、着いてるよ。何だか懐かしくなったから、歩いて帰ってるの。時期にたどり着くからちょっと待っててね…。」

「そう、まあいいわ。気をつけて帰ってらっしゃいね。あ、それと、今晩何食べたい?外食したいならそれはそれでいいんだけど。」


 食べ物の話に、強張っていた私の表情はふと緩んだ。


「そうねぇ…。今日はお母さんが作ったハンバーグが食べたいっ!!」

「うん、分かったわ。ハンバーグなら冷蔵庫に丁度食材あるし、すぐに取りかかる事ができるわ。だから、早く帰ってきなさい。」

「はい、…あっ!!」

「椿?どうしたの…?」


 店の奥から人影が現れ、それを凝視した瞬間、私は目を疑った。


「うんっ!お母さん、分かったから一旦電話切るわねっ!!」


 徐に電話を切り、店の中を再び確認した。先ほど見たものは見間違えではなく、彼しかスタッフがいないはずのお店に、女性の姿を見たのだった。


 もしかすると新しいスタッフを雇ったのかも知れないと思い、ここから見えるスタッフ専用駐車場へと視線を向けたが、車は一台しか止まっていない。お客さんの駐車場にも車が止まっていないという事は、お店には彼女しかいないという事を意味している。


 疑問だけが私の脳裏を過っていた。しかしここで狼狽えていても一向に答えは見出せない事は分かっている。


 お客さんを装い、お店へと潜入する事を決意した私は、この事が始まったあの日のように恐る恐る店の側へと近づき、もうどうにでもなれという思いで扉を開けた。


 流れるラフマ二ノフの音色と香の薫り。「いらっしゃいませーっ!!」と、ややふくよかで身長の低い、見た目三十歳前後の女性が私を出迎えた。


「カット…、お願いしたいんですけど…。」


 店内を見渡してみても、彼の姿も、雰囲気も微塵と感じ取れなかった。


「ありがとうございますぅ。失礼ですが、御名前を頂戴してもよろしいでしょうかぁ?」


 一見笑顔ではあるものの、目が笑っていない事に少し恐れをなしながら私は応えた。


「は、はい…。雨宮…椿です…。」

「ん、雨宮…椿さん…?」

「えっ……?」


 先ほど浮かべていた嘘くさい笑顔を消した女性の冷ややかな視線に、私は蛇に睨まれた蛙のような心境で戸惑ってしまった。私の名にこのような反応を示すという事は、間違えなく私の事を知っている。

 そう思った私に何の躊躇もなかった。


「ここは黒木さんのお店ですよね?お尋ねしますが、黒木さんはどこにいっちゃったんですかっ!?」

「雨宮さん。アンタ、ホントに何も知らんの…?」


 相変わらず怪訝そうな表情を向け、半ば呆れ口調で私に言い放った。


 お客さんである私に対しての物言い然り。それよりも状況をうまく掴み捕れない戸惑いや焦りが相まって、この女性の態度が鼻についた。


「知らないも何も…。私は彼と一カ月余り連絡を取っていませんからっ!!」

「ふーん、そうなんじゃ…。ホント可哀想じゃねぇ。」


 女性は深く瞳を閉じ、憂い帯びた表情を浮かべながらそう呟いた。

 一体全体、この一か月間に何が起こったのか、話が全く見えてこない状況。流石の私も遂に激昂した。


「だから…、何があったんですかっ!?私に何を言いたいんですかっ!?」


 ピアノの音色を掻き消すように叫び声が店内にこだました。それでも女性は何かを想うように瞳を閉じていた。


「あのね、雨宮さん。初めに言っとくんじゃけど、私は本店からここを任されとるだけ。何も知らんのじゃけど…。」


 女性は言葉を止め、強い視線を私に向けた。


「前ここにおった人、亡くなったらしいんじゃわ…。」

「……。えっ…………?」

「死因は事故死で、どっかにバイクで向かってる途中に、ダンプに刎ねられたらしい。少し前に地元のニュースや新聞で騒がれとった。」


 只々連絡を取らなくなった間にこのような状況になるだなんて、ドラマや漫画じゃあるまいし、このような事が起こりうるなんて信じられないし、信じたくないっ!!

 思わずその場にしゃがみ込んでしまった私に、女性の無常な言葉は続く…。


「葬儀には旧友が押しかけて、とんでもない騒ぎになっとったらしい。多分、彼は良い友人ばかりおったんじゃろね…。」

 女性の言葉に堪らず、私は声を震わせた。


「お、お姉さんは…。何で私の名前を、知ってるんですか…?」

「うん。そうなるわね…。」


 女性はそう言って、店の奥へと歩いていき、何かを手に取ってこの場へと戻ってきた。

 それは一通の封筒だった。


「あんな、ニュースでは事故死とか流されとったけど、実は自殺じゃないかって噂が流れとったんよ。大好きだった彼女に振られたって。黒木さん、割と有名人じゃけん、色々言う人おったんじゃわ…。」


 女性から優しく封筒を手渡された。


「私が店に来た時、これが部屋の机に置かれとった。見て解ると思うけど、アンタの住所も名前も書いて、切手も貼っとる封筒。これ見た時、黒木さんは自殺じゃないって思たんよな…。」

「そ、それは…、何で…?」


 ふと優しそうな表情を浮かべた女性の横顔が、窓から漏れる光に映し出されていた。


「ふふ、それは女の勘。まあ、強いて言うなら気持ちを伝える余裕がある人が、自殺するとは思えんけん。」


 その言葉に思わず気持ちがはっとなり、私は女性の顔を見つめた。どこか物憂げであるが、優しい視線を私に向けていた。


「これも女の勘じゃけど、雨宮さんがきっとここに来るんじゃないかって思っとったんよ。そして今日、アンタが現れて、やっとこれを渡す事ができた…。」


 溜息のように大きく息を吐く女性に私は深々と頭を垂れた。


「あ、有り難うございます。これは今から家に戻って、噛みしめるように読む事にします。本当に有難うございましたっ!!」


 透かさず女性は言った。


「で、雨宮様。カットはどうなさいますかぁ?」

「い、いや…。もう結構ですっ!!失礼いたしましたっ!!」


 女性の表情を確認する事もせず、私は急いでお店を飛び出し、実家までの距離を、荷物を抱えて必死に駆けた。未だ信じられないという気持ちが頭の中をかき乱している。ただ、明確な事は、手渡されたこの封筒の中に真実があり、それを知るまではどうする事もできない。


 発狂しそうになる感情を抑えながら、とにかく懸命に足を速め、実家へとたどり着いた。


「お、椿。お帰りなさいっ!!疲れたでしょ?」

「ご、ごめん、お母さんっ!!」


 暖かな声を振り払い、二階の一番端にある自室へと駆け上った。


 GWに戻った時からそのままである、何も変わらないこの部屋。妙な静けさが、このざわついた心を余計に呷っているように思った。


 重い荷物を床に置き、そのままベッドへと身を投じて、気持ちが鎮静化するのを待つ事にした。今の状態では冷静に彼の言葉を見る事はできないと思ったからだ。


 自然とこの三カ月の間に起こった出来事を思い返しながら、しばらくの間、天井をぼんやりと眺めていると、胸を叩くような激しい鼓動は段々と治まってくると共に、ざわついた感情も鎮静化されていく。


 そっとベッドから立ち上がり、鞄の中にしまった彼の封筒を手に取った。そして勉強机にゆっくりと置き、椅子に腰かけて、何も思わずそれを見つめ尽くしていた。


 丁寧に書かれた彼の文字、消印の押されていない切手と、開けられていない封筒。


 私は意を決し、ペーパーナイフで封を切ると、中には何枚かの手紙。それは一行開きで、ゆったりとした文字間で書かれていた。まるで大切な何かを私に語ろうとしているかのように。


 私は逃す事のないように、頭から一文字一文字、丁寧に読み始めた。

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