第32話 五 風任せの夢

 いつしか僕は眠っていたらしく、アラームにたたき起こされた僕は、口の中に残るウイスキーの苦さと軽い頭痛に苛まれ、心に深い痛みが残る最悪の目覚めだった。


 しかし、本日も一日かけて仕事が充実していて、うずくまっている場合ではない。とりあえずベッドから這いずり出ると、シャワー室へと向かった。イニシャライズするように熱いシャワーを浴び、仕事支度を施した後に、口がひん曲がるほどの苦いコーヒーをすすりながら完全な目覚めを待ち、そして職場へと向かう。


 季節は初夏。夏の支度を施すようにばっさりと髪を切る方。明るめなカラーを望む方。梅雨に入る前にストレートパーマでクセを抑える方と、その他諸々。

 有り難い事に、たくさんの御予約を頂いているのもそうであるのだが、僕が忙しい理由はそれだけではない。


 実は五月に入って間もない頃、三月に取材した山之江高校演劇部の舞台の音楽を手掛けた作曲者であり、従来よく知る間柄である森高豊氏から連絡があった。それは、「六月末に、僕のピアノ演奏会が市の主体で企画されていて、フライヤーの文面を考えて欲しい」との依頼であった。


 昔のよしみという事でそれは快く承ったのだが、依頼されたのはそれだけではなく、演奏曲の中の何曲かピアノ伴奏の唄ものがあり、その一曲をどうやら僕に唄って欲しいとの事。


 実のところ、彼と僕は遠い昔にバンド活動をしていた経歴があり、当時やっていた曲をこの機会に披露したくなったらしく、きっとそれは思いつきである事に間違いはないだろう。


 あれから随分と時が流れ、ただならぬブランク期間。丁重にお断りをしたのだったが、妙に熱を帯びる彼の呼びかけに心を動かされた僕は、遂に承諾してしまったのだった。


 そろそろ本格的なミーティングとレッスンが始まる期間に差しかかろうとしているが故、こんな事で立ち止まっている暇などあるはずなどない。


 市広報部からの次の依頼はきっとこのピアノ演奏会の事だろう。そのステージに取材する僕が立つという事実を告げた時、広報部側の反応が楽しみで仕方がなかった。


 仕事の合間で歌詞の見直しと把握。フライヤーの文面思考はすぐに出来上がるとして、演奏者側(森高氏のみ)とコラムの取材を密かに織り交ぜたステージミーティング。どうやら唄うのは僕だけではないらしく、他の方と森高氏のミーティングも敢えて同伴させて頂いた。そして個人的な唄のレッスンと、綿密な曲合わせ。

 様々な出来事に忙殺されている事に僕は大変助けられていたのは言うまでもなく、六月に差しかかった日曜日の朝。


 ふと我に返った僕は、二週間の間、思えば当たり前なのだが、椿と全く連絡を取っていない事に気がつき、謎の嫌悪感に苛まれたのだった。


 職場へと行き、予約表を確認する。この日は珍しい事に午後から予定が今のところなく、比較的ゆったりとした仕事内容である事を知った。


 当日の御予約があるかも知れないと、午前中の予定を丁寧にこなしながら電話を待っていたのだが、電話は一向に鳴る事もなく、時計の針が十五時を過ぎた時、朝から抱いていた嫌悪感が風船のように膨れ上がり、一気に弾け飛んだ。


 考える事を一瞬の隙も与えなかったから平常心を保たせられていたのか、只々忘れる為に自ら何かを欲したからなのかは分かりかねるが、我に返り思ってしまったが最後。


 椿の顔を一目見たくて、逢いたくて仕方がなくなった感情が狂おしいくらいに心へと流れ込み、居ても立ってもいられなくなった僕は、すぐ様店を閉め、タクシーを呼んだ。


 駅へとたどり着き、乱暴に切符を購入すると、ホームにてそわそわとした心持でたどり着く電車を今か今かと待ち侘びた。


 タイミングよくと表現するのが正しいのかは定かではないが、然程待つほどもなく電車はたどり着き、優に座れる自由席の状況であるにも関わらず、僕はデッキで姿を佇ませ、一秒でも早くたどり着ける事を祈りながら時を刻んでいた。


 行先は…、京都駅。正確に言うと、京都駅から地下鉄に乗り、北大路駅へ。そこからタクシーに乗り、葵の森にあるバス停、柊の別れまで。そう、椿がいる場所までという事である。


 これまでの情報によると、日曜日でも大学の稽古場でサークル活動は行われているらしいのだが、事実上それはフェイクで、飲み会が催されている。どちらにしても夜遅くに帰宅しているには違いない事から、柊の別れ付近で待っていれば、椿に逢えるのではないかと僕は思ったのだ。


 京都へたどり着くのはきっと八時辺り。微妙な時間であるが、逢えないのならそれはそれで諦めもつく。とにかく、この溢れ出る感情を抑えるにはその方法しかないと感じたからの所業であり、他意はない。

 

 岡山駅へとたどり着き、新幹線へと滑るように乗った。


 後は京都駅にたどり着くのを待つだけ。何度も何度も嗚咽しそうな感覚が僕を襲い、堪らずトイレで吐いたものに固形物は含まれていなかった。


 当たり前である。ここ数日まともな食事を取っていないのだから…。便器に浮かぶ黄色い液体を眺め、僕は思わず舌打ちした。


 焦る気持ちと時間の流れは相互しているのかと思うほど、仰々しく待ったという感覚もない内に、気がつくと京都駅へとたどり着いていた。


 新幹線乗り場から地下鉄まで少しだけ距離がある。ざわついた雰囲気の中、人込みを一心不乱に掻き分けながら僕は歩を進ませていく。「何あの人っ!?サイテーっ!」と上がる声に気も止めず、とにかく先を急ぎ、しばらく地下鉄切符売り場の前までたどり着いた。


『ぴーーーーーーん、ぽーーーーーーーーん。』


 大阪在住の際にもよく耳にしたこの謎の音。コンクリートの壁に響く群集のざわめきが今だけは耳障りに思えて仕方がなかった。


 肩を揺らすほど、息が切れた身体に鞭打って、ポケットに忍ばせた小銭を手に取り、切符を購入した。


 ここから北大路まで約三十分。

『これで椿の顔を見る事ができるぞ…。』


 僕は切符を握りしめ、改札へと向かおうと踵を返したその時の事である。何食わぬ顔でその場を通り過ようとする群集の中に、予期せぬ情景を目の当たりにしたのだった。


 それはその群集の中に椿と瓜二つの女。かつて見た夢と、大学で見たサークルの部長と瓜二つの男が腕を組み、談笑し合いながら通り過ぎていく情景。


 僕は思わず自ら頬を叩き、目を見開いて確認したが、やはり変わる事のない状況が視界を襲う。

 そんな僕に気づく訳もなく、通り過ぎる会話が耳に届いてきた。


「飲み会の場所もオシャレで素敵でしたっ!これから私をどこに連れていってくれるのですか?」

「いや、京都タワーの屋上行った事あるか?」

「実はまだないんですよ。」

「そうか…、ならよかった。」

「まあ、薫さんが連れて行ってくれる所なら、どこも素敵だと思っていますのでっ!!」

「ふふっ、雨宮。きっとそうでもないぞ?」

「うふふ、いーや。私は薫さんにずっとついていきますから。ずっと…。」


 群集のざわめきの中、この会話だけが浮き彫りに聞こえてきたのは何故なのだろうか…。


 それよりもこの会話から男女の正体は、部長と椿そのものであり、群集に紛れて消える二人の背姿をぼんやりと眺める事しかできなかった。


「そか…、そうなのか…。そういう事なのか…。」


 僕はそう一人ごちながら手に持っていた切符をその場に破り捨て、新幹線乗り場へと踵を返した。


『ぴーーーーーーん、ぽーーーーーーーーん。』


 会話が聞こえなくなった後、その謎の音だけしか僕の耳には届かなくなっていた。

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