第30話 四 適合と、不適合な過去
日中にも関わらず、外とは相反してやけに暗いこの部屋。妙に静寂なのはこの街の定説である事は言うまでもない。
彼は荷物を置き、使い勝手良さそうにコーヒーを立てたコップを私へと差しだしてきた。
「あ、ありがと…。」
受け取り、口をつけると私が買ってあったコーヒーより格段に美味しい味わいが口へと広がり、私は驚いた表情を浮かべた。
彼は笑いながら私に言う。
「椿、気がついたんか。俺が昔から好きなコーヒーがスーパーに売っとったけん。よかったら飲んでな。」
彼は床へと座り、ベッドへと背を預けながらカップを口へと運んだ。
窓のカーテンから漏れる光は明るく部屋の中を微かに映し出し、風が齎す葉の擦り合う音と上の住人の撓む床の音。
私は意を決して、彼へと言葉を這わした。
「あのね、ダーリン。来月の第三日曜日の話なんだけどさ、サークルの合宿があるみたいなの。でね、私はそれに参加したい。」
「あ、そうなんじゃ…。」
カップに口をつける彼の表情が微かに揺れ、しばらくカップの表面をぼんやりと眺めていた。
「うん、行ってええんでない?楽しんできたらええと思うよ…。」
「ホントっ!?ダーリンっ!?」
「ただなっ!!!?」
私の喜ぶ声を直ちにけん制する彼の叫びに似た声。彼からそんな大声を聞いたのは初めてだった。
「ただな…、一つ聞きたいんじゃけど。その合宿って何の為に催されたもんなん?」
私は事隠さず、全てを告げるよう丁寧に説明した。
「七月に新人だけの舞台が予定されていて、今から頑張って脚本覚えて、その合宿で完成間近まで仕上げるみたいなの。この間も、部長から期待してるって言われたばかりだし、合宿なんて今までした事なかったし…。私、頑張ってみたいのよっ!ダーリンだったら理解してくれるでしょっ!!?」
「ふーん、そか。そうなんか…。でも、本当にそれだけか…?」
私へと向けた視線の奥に猜疑心の色が見え、私の心はざわついた。
「何っ!?私があなたを欺いてるとでも言ってるのっ!?」
「いや、そうではない。そうではないが、君が口を開くといつも部長の名が出てくるからな。演劇より何より、部長と一緒にいたいだけなのかという疑惑が浮上しても不思議ではあるまい…。」
いつも愛媛弁で話しているはずの彼が何故か流暢な言葉を発している。それは物語を書いているからなのか、はたまた彼がキレた時、このような声音になる癖があるのか…。兎にも角にもそのような癖があるらしい。
それよりも彼は部長と私の間を疑っているのか…。私は思わず声を荒げた。
「何言ってんのよっ!そんな事あるはずないじゃないっ!!!馬鹿な事言わないでよ、もう…。」
「確信迫る事を言われた時、『もう…』って言葉で締め括る癖があるの自分で気がついているか?椿よ…。」
「えっ…?」
付き合い始めてまだ二月余り。今まで指摘された事のない癖を悟られ、初めて口にされた時の恥ずかしさや否や…。それよりも苛立つ感情の方が先走っていたが、それに言い返す言葉も見つからない私は静かに彼を見つめ尽くすしかなかった。
彼は誤魔化すように、窓から漏れる光の方へ視線を向け、わざとらしく表情をしかめさせていた。
「まあ、それはいい…。俺が思うところ、どうせその合宿も親睦会の一環なんだろ?そうならそうと初めから言えば聞き分けいいのに、君ときたら…。」
そのすかした言葉に堪らなくなった私は遂に激昂した。
「何でそんな事言うんですかっ!!あなたの思い込みで、私達のやっている事を愚弄しないで下さいっ!!」
「えっ…?君、そう言うけど、俺に嘗て嘘をついていた事あったじゃないか。そう、課外授業で三条木屋町行ったって話だ。その後、愚かしくも自分でネタ明かししたじゃないか。今月初めの話だし、覚えているだろ?なあ…。」
それに返す言葉など有るはずもなく、私は脱力の余りその場へとしゃがみ込んでしまった。多分ここまで言われてしまうと、部長に対しての密かな想い、何もかも悟られた上で彼はこれまで接してくれていたのだと思わざるを得ず、驚愕というよりも恐怖の念が勝り、気がつくと私は小刻みに身体を震わせていた。
「敢えて言える事があるとすれば『君の』部長の顔を拝見したのは初めてではない。まあ、現実には初めてなのかも知れないが、実はそうではないのだよ…。」
「え…?どういう事…?」
「GWの時、渡してくれたHPを確認した時はそこまではっきりと分からなかったが、今日部長の顔を見た時確信した。俺が前に見た夢に、君と彼が向き合っている姿を見ていたのだよ。」
『夢で見た…?予知夢…?何を言っているの、この人…?』
私は彼が言っている意味がよく理解できず、特に取り乱す様子もなく淡々と語っている彼の姿に恐怖した。
「まあ、いい…。これ以上言葉を這わしても埒が明かんな。俺はもう帰る事とする…。」
彼はそう言い放つとキャリーバックの柄を手に取った。
「えっ?京都駅まで…、私…。」
「いらんよ。しばらく君は自身の素行を考え直した方がいい…。」
先程言い争った声を浚うように、彼は何の迷いなく家から出ていった。
静寂が再び舞い戻った時、全身が汗に塗れ、身体がやけにダルい。喉の渇きを潤そうと冷蔵庫を開けた時、買った記憶のないお気に入りの牛乳パックがあり、冷蔵庫全体を見てみると、食材がぎっしりと埋まっている事に気がついた。
冷蔵庫の側に二リットルの水が一ダース置かれていて、キッチンもやけに磨き上げられて、片づけられている。
私は思わずはっとして部屋中を見渡してみると、床に置かれていた鞄等はカーテンのシャッターへと上手くかけられ収納されていて、机の上に乱雑に置かれていた書物は規律よく並べられていて、塵一つないピカピカな床。
その部屋に私は思わず戦慄してクローゼットの扉を力強く開いてみたが、そこは手つかずのまま放置されていて、恐る恐るベランダを確認してみると案の定、洗濯機に入れてあったタオルと私の衣服が丁寧に干されていた。
私は深く溜息をつきながら洗濯機が置かれている後ろに隠してあったネットを取り出し、洗濯機に放り込んだ。それには使用済みの下着がいれてあった。
時計は十五時を少し回った所を指していた。
今大学に行けばサークルくらいは参加できるのだが、妙な噂を立てられている事請け合いである今、その渦に自ら入っていく勇気も沸かず、それより何より、心身共にすっきりとしたかった。
私は今来ている衣服も洗濯機に入れ、電源を入れてシャワー室へと入った。
以前は嫌いだったはずの熱いシャワーが好きになったのは、きっと環境の変化だからなのだろう。
使っていたボディタオルの感触が違い、シャンプーも、トリートメントも初めに置いていた物とは違う高級な物が置かれている。それは彼が置いていったものである。
それはそれで私は遠慮する事なく使ったのだが、ふと排水溝に流れる泡と水を見てみると、まるで彼に抱いていた感情諸共流れていくような気がした。
しかしそれに栓を塞ぐ想いには至らず、シャワーのノズルを手に取り、勢いよく流した。
早退したが故に課題は与えられていない。
私は手渡されていた台本を手に取り、多分鳴る事のない携帯の電源を敢えて消して静かな宵を過ごす事にした。
もっと部長に褒められたいと、そう想いながら…。
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