第26話 四 適合と、不適合な過去
「ちょっとここで待ちよってな。」
彼はそう言うとこの場を立ち去っていき、受付窓口に立つ女性と何やら話し合っていた。
未だ何が起こっているのか分からない私は、ぼんやりと過ごしていると、この場へと戻ってきた彼は「椿、ばっちりじゃっ!あそこのソファーで待ちよってってさっ!」と満足そうな面持ちを浮かべている。
彼の言葉の意味がやはり理解しかねるのだが、待っていれば何かが起こる事は確からしい。そうして私達は受付嬢に指定されたソファーへと移動して、嬉しそうな表情を浮かべている彼の横顔を私は眺めながら過ぎる時を待っていたしばらく…。
「黒木君っ!!久々やないかっ!」
まるでエントランス全体に広がるような声の元に視線を向けると、中肉中背で、短髪の男性が万遍の笑みを浮かべてこちらへと近づいてきていた。彼はソファーから立ち上がり、「佐々木さん、お久しぶりですっ!」と深々と頭を下げた。
「いやいやいやいや、ホンマ懐かしいなあっ!!元気にしとったんかいなっ!!」
その男性は周りの目を気にする事もなく大声で言葉を発しながら、彼の肩を親しそうに叩いている。
頭を上げた彼は、「いやあ、相変わらず売れない文章ばかり書きながら生きておりますよ。佐々木さんもお元気そうで何よりです。」と少し恥ずかしそうな表情を浮かべながら応えていた。
「俺も何とか生きとるさかいにな。で、黒木君。そのお嬢ちゃんは?」
男性は私の方に視線を向けている。
「えっと、まあ。ええ…。」
「まあ、ええわ。黒木君の隣におるんやったらこういうこっちゃなっ!!相変わらず隅に置けんなあっ!!」と、どこかいやらしそうに小指を立てながら薄笑っていた。
私の表情は思わず怪訝げになっていて、それに彼も気がついたのだろう。
「佐々木さん、そろそろ勘弁してくださいよね。彼女も困ってるみたいなんで…。」
彼は本当に困っている表情で男性に言うと、「あ、野暮やったな。お嬢ちゃん堪忍なっ!!」と私の方へ笑顔を向けた。
「いえ、大丈夫です。はい…。」
私の声に男性は一つだけ頷いて見せると、彼と昔話に華を咲かせ始め、しばらくはそれに同調していたのだったが、当たり前なのだが分かる話などあるはずもなく全くもって蚊帳の外の私。
退屈凌ぎにこのエントランス内を見渡しながらこの場をやり過ごす事にした。
電話を相手に怒鳴っていたり、ぺこぺこと頭を下げ続けている者達。急いでこの場から走り去っていく者やこの場へ走り来る者。彼や男性のように談笑を繰り広げている者や、深刻な面持ちで商談している者。
こうして様々な力によりここへ情報が集められ、時間と活字に塗れながら一つの作品が誕生し、世に出されていく。
そう考えると、本屋さんに置かれている物を軽んじて手に取る事はできないと思いながらぼんやりとそれらを眺めていた。
どれだけ時間が過ぎたのだろう。彼と男性から相変わらず爆笑する声が上がっていて、終わる気配はまだまだ感じられない。私は少しだけうんざりした気持ちになり、密かに溜息を漏らした。すると…。
「で、お嬢ちゃん?俺から一つ質問してもええか?」
「えっ!?は、はいっ!!」
いきなり意標を突かれたように、私は思わず叫びに似た声を上げた。心臓は激しく動いている。
男性は煙草に火を着けると、旨そうに煙を吐きながら私の方に視線を向けた。
「お嬢ちゃんは、本は好きか?」
まるで私を窘めるような男性の表情。それには多分深い意味はなく、ただ、この業界で生きる者が一般人にアンケートしているのだろうと思った。
「ええっ!門山文庫の本だったら、刃ヒカル先生の『黄昏は知る』や『この情景に死する刻』。蒼井弓先生の『絶え間ない雨の中で』とか読んだ事ありますよっ!!」
その言葉に男性は目を真ん丸に見開かせると、次には派手に笑いながら笑顔になっていた。
「がははははっ!!何や、めっさ文学少女やないかっ!それ聞いて安心したわ!!」
何について安心したのか私には分からず、只々喝采している男性を眺める事しかできなかった。男性は笑うのを止め、言葉を続かした。
「いやな、お嬢ちゃんは黒木君が毎日毎晩小説を頑張って書いとるの知っとるやろ?」
その問いに私は何も言わず一つだけ頷いて見せた。
「作家って職業はやな、華やかに見えて実はそうやないんや。頭を捻らせて、魂を削りながら表現を生み出しよるんや。それが結構孤独な作業なんやで…。」
男性は煙を吐きながら呟くように言った。
「お嬢ちゃんの彼氏はいつか売れっ子作家になる。俺はそう信じとるし、お嬢ちゃんもそうなって欲しいと思っとるやろ?何をどうできる訳やないけど、お嬢ちゃんは黒木君の心の支えになって欲しいんや。頼めるか?」
その場に充満している白い煙の中で、私に向けられている真っ直ぐな瞳。それにどうしていいか、どう応えていいのか分からない私は、しばらくの間黙って俯く事しかできなかった。
確かに彼が売れっ子作家になるのなら私も嬉しいし、そうなって欲しいとも思っている。しかし、若い私が大人である彼の心の支えになれるかどうかという自身も余裕もなく、その場しのぎの態度を見せられるほど、この男性の言葉は軽いものではない事など十分分かったから、私は困窮したのだった。
ふと携帯電話の鳴る音が上がり、それは男性の胸元から鳴っていた。
「はい、分かりました。今すぐそちらへと向かいますので…。」
そう言って男性は携帯を切ると、私達へ…、寧ろ私の方へと笑顔を向けた。
「お嬢ちゃん、刃先生から新作が脱稿したから取りにこいって連絡だったよ。ファンがいるってちゃんと伝えとくさかい。んじゃ黒木君、あんじょうしいやっ!!」
男性はいそいそとこの場から離れていき、エントランスの端にあるエレベーターへと吸い込まれていくと、騒がしく人だかるこの空間に、取り残された感覚に陥った。
インフォメーション側に置かれているホール・クロックに視線を向けると、時計の針は十六時十分辺りを刺していて、梅田でラスクと落ち合う予定まで一時間を切っている事を今初めて知った。
「椿、付き合ってくれてありがとうな。さあ、梅田いこか…。」
彼は笑顔で私へとそう呟き、ソファから腰を上げて荷物を手に取った。その笑顔の中にどこか翳りがある気がしたのはきっと思い過ごしではなく、それは男性の問いに即答できなかった私に対してのものだろう。
何かを感じ取っているのは重々分かっているのだが、それをフォローする言葉も気持ちも不思議と私には沸かなかった。
彼は何を思っているのか無言で玄関へと歩を向かわせ、私はそれを追いかけ、門山文庫社を後にした。
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