第23話 四 適合と、不適合な過去

 辺りは薄暗く、水面には月明かり。遠くの方には煌々と灯るビルディングのネオンと、その元には車のヘッドライトが交差している。そしてすぐ隣には部長の存在…。

 そう、今憧れの部長と肩を並ばせて歩いていて、思わぬ夢のようなシュチュエーションに気持ちが高鳴らない訳などない。

 まだ時間が早いせいか、河川敷には怪しい雰囲気で身を寄せるカップルが…。あ、もしかすると遠巻きに見ると私達もカップルのように見えるのかと思うと、高鳴る鼓動が一層激しくなり、部長の方へと視線を向けられなくなった。


「雨宮?どうかしたのか?」

「えええっ!?いや、その、なんでもないです。はい…。」


 いきなりかけられた言葉に思わず口から心の臓が飛び出そうになった。


「はははは、何でもないならいいんだけどね。」


 風に揺れた前髪の隙間から微かに見えた部長の表情は優しく、月明かりに映し出されているその姿に私は見惚れてしまっていた。


「おい、雨宮っ?歩くのしんどくなったのか?」


 更なる一声に私の身体は一瞬宙に浮いた。既に笑うだけとなっていた部長を眺めていると不思議と緊張が解れてきて、「いやっ!すいませんっ!大丈夫なのですよっ!!」と、何とか応える事ができた。

 部長は一つだけ頷くと再び歩を進ませ、私はそれに続いていった。


「そう言えば雨宮は確か愛媛の出身だったよね?一体どんな所なんだい?」

「えっ?何もない所ですよ。強いて言うと山と海ばかりの辺鄙な所ですよっ!」

「海があるのか、それはいいな…。」


 部長は何故か足を止め、遠くの空へと視線を浮かばせながらそう呟いた。


「どうされたのですか…?」

「いや、僕は長野出身でね。山渓が映し出す四季折々の景色は確かに好きだけど、いつか海がある土地で静かに過ごしてみたいという夢があるんだ。好きな時に釣りをしながら美しい景色をフレームに残したり、海に浮かぶ物全てを客に一人芝居したり…。言ってみたら爺臭い夢だよな、ははは…。」


 私は十九歳になったばかりで、部長は2年上だから二十一、もしくは二十二歳。そう離れていないにも関わらず、表現や仕草。いや、存在に深みを感じてしまうのは何故なのだろうか…。


 地元にいる彼も時折深みを帯びた言葉を私にくれる。それも培った経験がもたらすものであり、正真正銘、現実味に溢れているものなのだろうが、残念ながら今の私には分かりかねる事ばかり。


 部長が今漏らした夢の形の方が私には分かりやすく、部長が浮かばせている視線の先、心中にあるものに触れてみたい。そんな感情が沸々と込み上げ、気がつくと私は叫んでいた。


「私はまだ大学入りたての世間知らずな人間で、そんな遠くの未来は見えていないから。ただ、部長が見ている夢は…、素敵だと思います。」

 いきなりのその声に、部長は一瞬、目を見開いたのを私は見逃さなかった。

「はは、ありがと。そう言ってくれると嬉しいな…。」


 その言葉とは裏腹に、何故か悲しそうな表情を浮かべ、大きく息を吐きながら視線を落とした。

 もしかすると部長はこの若さにして人に言えない過去を抱えながら今生きているのかもしれない。それが血となり肉となり、深い表現方法の糧となっているのだろうか。


 いつだったか彼が、「人生経験がより深い表現方法を生み出すんだ。」と、語ってくれた事があったような…。しかしその時は正直何の事かさっぱり分からず、ただ、頷くだけだった私。


 彼は文学、部長は演劇という表現方法で人生を語っている。まだ何の経験もない私は、これより更なる経験を積み、私なりの、私だけの表現を創り上げなければいけないのだ。

 もっともっと頑張らなければいけないと心に誓いながら足を進ませている私に、先程とは打って変わった部長の明るい声が耳に届いた。


「雨宮が今抱いている夢は、あるかい?」

「えっ!?私は、私は……。」


 確かに夢はある。それは世界を股に掛けた舞台女優になる夢。しかしこんな大きな大きな夢など部長を目の前に語れる訳などなく、今語られた夢に比べれば、荒唐無稽にしか思えない。

 それよりも今抱いている最も身近な夢は…。


「私の夢は、部長と同じ舞台に立って演じたいという夢がありますっ!!」

 声高に叫んだ私に、部長は笑顔で頷いた。

「そうか、でもそれは直ぐに叶う話だから夢だと思わない方がいいな。」

「えっっ!?ちょっっ!!」


 部長の言葉の意味がさっぱり分からない。新人である私が、早くも部長と同じ舞台に立てる事なんてあるはずがない。

 本気で驚く私をどこか意地悪そうな笑みで眺めている部長。その間を少し湿った風が通り過ぎて行った。


「うん、この際、雨宮には話しておこうか。7月に君たち新人の初舞台を企画していて、その舞台のモブで僕と副部長である西脇が参加する事になっているんだ。」


 その言葉に私は全身が硬直状態となってしまった。


『初舞台が7月という事は後二カ月余り。演劇に携わるようになって間もない私達が早くも舞台を…?という事は、脚本は既に出来上がっているのだろうか?それよりもそんなどうでもいいような舞台に部長と副部長が何故…?』


 この時点で最早どこから突っ込んでいいのか分からないほどの情報量なのだが、続く部長の言葉が私を更に困惑の渦へと誘っていく。


「脚本はもうすぐ皆へと配られ、今より厳しい練習を与えられるようになると思うが、頑張ってくれると僕は信じている。そして、六月第三日曜日に滋賀県にある施設にて一泊二日の合宿を企画していて、そこでその舞台をほぼ完成に近いところまで持っていく。まあ、そんなところだ。この事はまだ他の新入部員には他言しないようにな。」

「は、はい。わかりました…。」


 気の抜けたような声で私はそう呟くと、部長はどこか満足そうに一つだけ頷いて、


「もう少しで地下鉄の駅だ。急ごう。」と、茫然自失のようになった私の肩に優しく手を置いた。


 それにより私はようやく意識を取り戻すことができたのだったが、その事についてどう応えていいのか分からない私は、部長の方へとまともに視線を向ける事さえできない。その心情を理解したのか部長は、何も言わず歩を進ませ、私はその背をひたすら追いかけていく。


 遠くに見えていたビルディングのネオンの元までたどり着き、大きな橋には両進行同様、激しいクラクションを鳴らす車の列と、歩道にはどこに向かっているのか分からない老若男女の群集。


 その様に呆気に取られていた私の手を部長は優しく握り、「この橋越えた所が駅だから。」と、私に驚く暇も与えず、部長は私を引っ張るようにして人込みの中に紛れ込んでいく。


 行き交う人の群れの中、私を先導してくれている部長。長身で華奢な体つきであるはずがその時だけはやけに逞しく、ネオンやカーライトがもたらしている光のせいか妙に眩しく見えた。


 橋を抜け、人込みから脱した所に差し掛かると握っていた手をすぐに外し、部長は気持ち良さそうな背伸びを施していた。

 ここまでくれば後は地下鉄で北大路駅まで行き、バスに乗り換えて柊の別れまで向かうだけであるが、この時間だと地下鉄はきっと満員であろう。でも、先程と同じように部長が私を護ってくれる。そう思うと、頭脳に雷のような光が駆け抜けていき、心身共に暖かい何かが包んでいった。


 地下鉄は思っていたほどの人はおらず、優に座れるくらいであり、部長と共に安堵の息を漏らして笑いあったのだったが、実は私の心の奥底には残念な気持ちがあった事は否めない。


 北王路駅へとたどり着き、バスターミナルへと急ぐと絶妙のタイミングでバスがたどり着いていた。


 バスの中はやや込んでいて、他の客に迷惑をかけぬようと言葉を交わさぬまま、通り過ぎる窓の景色をぼんやりと眺め、その場をやり過ごしていると、あっという間に最寄のバス停である『柊の別れ』へとたどり着いた。


 大体の乗車客はここで降りるらしく、流石は大学があるこの土地であると私は思いながらバスを降りると、既に慣れ染んだ土の薫りを乗せた風がまるで私達を出迎えてくれているように通り過ぎて行った。


「雨宮、また明日。じゃあな…。」


 終始笑顔のまま、部長は大学がある坂の方に広がる闇へと、独り進み始めた。部長が見てなくてもいいと、私は部長の背中へと見えなくなるその時まで小さく手を振り続けた。


 携帯電話のディスプレイには十時四十八分と記載されていて、レストランを出てから今に至るまで、おおよそ二時間余りの刻が流れている事に気がついた私は、未だ信じられない出来事に気持ちを高揚させ、闇が深くなった家路を浮足立ちながら、鼻歌交じりに進ませ、家の玄関を勢いよく開けた。


 後は少しだけ熱いシャワーを浴び、豊かな眠りにつくだけ。そして明日が私へと訪れて、また部長に逢える。


『この感情は、既に憧れだけではない。でも…。』


 自らが感情を否定してしまうのは勿論地元にいる彼の存在が故。そんな事は分かっている。分かり過ぎている。


 しかしながら、瞳を閉じると部長の映像が頭の中に流れるばかりであり、地元の空も、苦楽を共にした旧友の顔も、そしてあれほど愛しく想えた彼への感情さえも灰色のベールに閉ざされてしまった感覚に、私は思わず頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまった。


 まるで杭を激しく撃ち込まれたように部長の笑顔が頭から、もとい、心から離れなくなった側で、ふと思い出してしまった事があった。


 それは五月第三日曜日。つまり十九日に再び彼が京都へと訪れるという事。第三日曜日は彼が唯一連休を取れる週であり、その期に京都へと来てくれるようになっている約束。


 で部長から語られた中での合宿予定は六月第三日曜日。言わずもがなではあるが、彼とサークルとを天秤に掛けなくてはならなくなってしまったのだ。


 新たな生活と昔の事。嘗ての概念と今抱いている夢と希望。そして彼の気持ちと私の気持ち。彼の存在と部長の…。


 考えていると思わず胸の奥から何かが込み上げてきて、急いでトイレに駆け込んだ。

 こんなどうしようもなく、居た堪れない感情に苛まれてしまうのはこれまでに経験した事がなかった。とりあえず込み上げてきたものをトイレに流し、冷蔵庫で冷やしていた水を思いのまま喉へと流し込んだ。すると、心にあったざわめきが一旦鎮静化した気がした。


  その夜に見た夢。私は砂浜の真ん中に立っていた。

 海は波が静かに満ち引きを繰り返していて、空はまるで這いつくばるような雲泥。しかし、遠く向こう側の空には夕焼けの光が雲の隙間から漏れ、水面を微かに染めていた。

 ふと視線を横一直線へずらしてみると、沖合に浮かぶ島に細く長い橋が架けられていて、その島には神社があるらしい。


『この景色、この情景…。確実に見た事がある。』


 私は思わずはっと息を呑みながら、橋の元の方へと視線を移していくと松林の中に石で造られた鳥居。その下にはコンクリートの堤防が横一面に広がって、松林と砂浜を繋ぐ入り口に二人の人影が見えた。


『あっ!?あれはっ!!?』


 この人影が誰であり、これから何が起ころうとしているのか瞬時に分かってしまった。

 何故ならあれは嘗ての私達自身であり、この夢は正しく彼と付き合うようになったきっかけであるあの日の、あの時の情景なのだから…。

 遠巻き見える二人の影がふと重なり合った。


 それは抱きしめ合っただけで、それ以上の事はなかった。それは私の大切なものはまだ取っておいた方がいいと彼自身がけん制したから。


 この言葉があったからこそ、私は彼に心を許し、人生初の彼と認めたのだった。


 夢の中であるにも関わらず私の頭の中は妙に冷静で、今すぐその場に走っていき、引き離してみても現実は何一つ変わらない事など理解している。

 その重なり合う影が消え、夢から覚めるのを只々待つしかできなかった。

 歪み始めた視界の中、松林の奥へと人影が消えたのを見た時、耳元から激しい目覚ましのアラーム音が鳴り響き、私は思わず飛び起きた。


 全身が汗に塗れ、目元や頬がやけに濡れているのはきっと涙。夢の情景が歪んでしまったのも多分このせいだと私は思った。


 部屋にはすっかりと光が満ち溢れていて、時計を見ると、針は七時を過ぎた所を指していた事を確認した時、セットした目覚ましが鳴ったのだから特に見る必要もなかったという現実に気がつき、深い溜息交じりに大きく息を漏らした。


 今日、月曜日は朝一から受講科目があり、九時までには講義室へと入っていなくてはならない。とりあえず気持ち悪い身体を何とかしたいと、ベッドから這い出して、鉛のように重く感じる身体を引き摺るようにシャワー室へと向かい、熱い湯で汗とざわついた感情を洗い流した。


 この夢を見てしまった理由はきっと、というよりもやはり彼への罪悪感と、そして私の良識がもたらした夢であるのだろう。


『私は彼を、彼の事を今も愛していているから、部長はただ憧れだけの存在である。ただ、それだけ…。』


 心の中で念仏を唱えるように何度も何度も自身に言い聞かせながら準備を施し、八時十五分前には家の玄関を飛び出していた。

 今日も日差しはやけに眩しく、手を翳しながら天を仰ぎ見ていると、ゼミで何度か一緒になった顔見知りが自転車で私の側を通り過ぎていき、懸命にペダルを漕ぐ背姿をぼんやりと眺めながら大学へと向かう坂道を進ませた。


『今日のサークルで、部長はどんな顔を私に浮かべるのかしら…。』


 そう思う私の顔は自然と綻び、時間が早く過ぎてくれる事を心から願った。

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