第22話 四 適合と、不適合な過去

 講義を終えた後、ノートを鞄に詰め込んでいた私の側に、同じサークルの浦壁さんと火野君が歩み寄ってきた。


「今度の日曜日どうすると?」

「勿論、雨宮さんも来るんやろ?」


 嬉しそうに発する言葉に、私も思わず顔を綻ばせた。


「あたりまえじゃないっ!行くに決まってるわよっ!!」


 浦壁さんは私の手を熱く握り、目を輝かかせながら言った。


「今度の場所は先斗町にある素敵なお店に行くとよっ!」

「えっ?私、それがどこなのか分からないけど、楽しみだね。」


 そうして私達三人は嬉しそうに肩を並ばせて講義室を後にした。

 実は、少し前から部長主催でタウン情報誌に掲載されている食べ物屋さんを片っ端から攻めていくという一大ムーブメントが到来していて、次の日曜日もその大遠征が企画されているのである。


 大学生の私達には一見無謀とも思われる企画ではあるのが、一回生はお金を殆ど支払う事なく、先輩方で立て替えてくれているという。

 ある日の飲み会の時、偶然隣り合わせになった部長に、私なりに思う事を告げたところ、思いがけない言葉が返ってきた。


「雨宮は優しいな…。だが、気にする必要はない。これは新入生の親睦と、サークル内の結束を固める為のものなんだからね。」


 笑いながらグラスを傾ける部長。


「ま、兄さん姉さんにここは任せときなってっ!皆、バイトでそこそこ稼いでる奴らばかりだがらな。」


 二回生の部員はさて置き、三回生にもなると、真面目な学生は単位を殆ど取得してしまい、大分の暇ができるという風の噂は本当らしい。

 その言葉の意味よりも、部長の紳士的な態度や声の深み。そして澄みきった眼差しが私の心を捉えて離さなかった。

 その事があってからというもの、私はこのイベントを楽しみに日々を過ごし、厳しい練習も何のその。こうして休日も忙しい身分となってしまったのだが、何故だかどうしてこの事を素直に彼に告げる事ができなかったのかは、良心の呵責から来るものなのだろうか、それとも…。


 この間の彼とのドライブの時、うっかり口を滑らせてしまったのは迂闊ではあったものの、私の饒舌な言葉で得心した様子の彼に胸を撫で下ろしたのはここだけの内緒である…。


 こうして五月十二日の日曜日の活動当日。

 先斗町で行われるイベント会場は、白い壁とステンドガラスが印象的なイタリアンレストランであり、当初のメンバーよりも少しだけ少なくなっていたのだが、和気藹々とした雰囲気だけは今も変わらず、大学の事や、個人個人の愚痴。果ては恋愛についてまで赤裸々に語り合いながら楽しい時間を過ごし、お開きとなったのは時計の針が21時を指そうとしている頃合いであった。


 明日を約束し合いながら手を振り合い、一人、また一人とその場を去っていき、気がつくと私だけとなっていた。


「まだ九時だし、せっかくここまで来たんだから街の散策でもしよっかなっ!!」


 妙に朗らかな表情を浮かべた人々を横目に、想いのまま細路地を進ませていると、いつの間にか大きな河川の畔へとたどり着いていた。

 光を弄び揺れる水面に気がつき、天を仰ぐと、今宵の月は美しく、影に潜むはずの稜線が朧気に映し出されていた。私は息を呑み、その景色にしばらく意識を奪われていると、ふと彼の姿が私の脳内に蘇ってきた。


『私の事を愛しくて仕方がない彼も、今頃遠くの空で同じ月を眺めているのだろうか…。』

 気がつくと私の瞳に熱いものが込み上がってきて、全ての景色を霞ませていく。


『バシャリッ』


 唐突にシャッター音が鳴り響き、私の意識を現へと引き戻した。辺りを見渡すと、すぐ側でカメラを手にして闇に佇む人影が見え、目を凝らして見ていると、相手もこちらに気づいたようでゆっくりと手を振ってきた。


「雨宮じゃないか。こんな所で何をしているんだい?」


 その声は正しく部長であった。


「あ、部長こんな所で奇遇ですね。部長こそ何をしているんですか?」


 部長はこちらへと歩を進ませながら声を返してくる。


「今宵の月は綺麗だから、どうしても写真に収めたくてね。ここは僕のお気に入りの個所の一つでね。」


 部長は、はにかみながら大事そうにカメラを抱え、私の側にたどり着いた。


「あ、部長は写真もされるんですね。」


 驚く私の声に、部長は何となく面目なさそうに頭を掻いた。


「いやー、実はね、最初写真部に入ろうかとも思ってたんだけど、演劇への情熱は捨てきれなくてね、ははは…。」

「あ、すごい奇遇ですねっ!私も写真好きなんで、この活動がすごく助かってるんですよねっ!!」

「と、いうと…?」


 刹那、部長は訝しそうに私を眺めた。私は半ば焦るように言葉を続かせた。


「い…色んな場所に行けるんで、写体探しに困らないからいいなって思って…。」


 焦る私の肩に暖かな温もりが覆い被さってきた。


「やっぱり雨宮はいい感性を持っているね。その気持ちは大事で、それは必ず演劇に生きてくるからね。」


 正面から部長の瞳を見つめ続ける事ができない自分が口惜しく感じるのは、きっと彼の存在がそうさせるのだろう。でも、しかし、だから…。


「ところで、雨宮はどこに住んでるんだ?」


 私はその言葉に何故かときめいてしまったのだが、彼の事を思い返してしまった今、罪悪感に苛まれたのだったが、それに応えない理由もない。


「大学近くの葵の森です…。」

「あ、なら僕の家と近い。夜は物騒だから、家の近くまで送るよ。」

「えええっっ!!」


 予期せぬ出来事に私は溢れ出る感情を隠し通せなかったが、今正しくある心情が頭に過り、ふと心の穴を閉ざした。

 でも、部長と続く今宵、閉ざした穴をこじ開けられる事など私は分かっていた。

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