第15話 三 あの日の嘘
仕事は有り難くも多忙を極め、小説の進み具合も差し詰め良好である。
相変わらずの毎日続く電話の中で、椿から上がる話題は四月二十五日のサークル勧誘祭の事ばかり。華やかな雰囲気の中、椿の眼を引かせたものは言わずもがなではあるが、演劇部の催し。
どうやらその演劇項目は椿の心を震撼させるほどのものであり、その中でも一際注目したのが、主演でありサークル部長である人の演技力と、醸し出す雰囲気であったらしい。
演劇小屋を出た後、椿はすぐ様入部届にサインし、その帰りに映画研究部で入部を丁重にお断りしたのだが、未だ執拗に受ける入部依頼にいい加減憤りを覚え始めていると、どこか誇らしげに言っていた。
舞台に対しての熱い憧れと、あの日に見た部長の煌びやかな演技と高貴な雰囲気(そう感じたらしい)を、何度も何度も語る椿の口調はまるで、一目惚れをした少女そのものであり、ここは年上の余裕で聞き流さなければいけないという事は重々承知しているが、妙な不安感にざわめくばかりの時が冷静さを欠如させていく。
全てを把握できない事など、この恋が始まった時から理解しているつもりでいるのだが、いざこうなってしまうと頭と心をうまくコントロールできなくなるのが人の性というものであろう。
しかし問い質す事もできず、心持ち悶々と宵を過ごしているある日の事、僕は妙な夢を見た。
それは長い長い夢だったという事は感覚しているのだが、ほとんど思い出す事はできない。
ただ、頭の中に唯一残されている画像は、遠巻きに見える大きな鳥居の影と、青々とした芝生の中心に敷かれている石畳の上でお互い姿を向き合わせながら立っている男女。
長い前髪が風に揺れ、白いカウチンセーターと黒いズボンというややスタイリッシュな出で立ちの男に向かう女の姿に僕は目を見開かせた。
京都駅で僕の前に颯爽と現れた時と瓜二つの服を身にまとう姿。長い前髪で男の表情は微妙に確認できないのだが、女は…。そう、椿であった。
それは飲み過ぎた朝の夢で深く考える事はできなかった。その夢の要因が何であるかという事は明確には分からない。ただ上げられる事があるとすれば、毎日毎晩語られている背景に見え隠れする何かに憔悴している自身の心である。
しかしその夢の事を語るなどできるはずもなく、心中へと固く閉ざして、毎日語られる椿の言葉を聞くに徹する事しかできなかった。
ラジオやテレビから流れてくる情報で、五月GWに差し掛かろうとしている事を知った。
椿の話によると、五月三、四日は祝日にも関わらず大学講義と稽古があるらしく、帰郷するのは四日の夜との事で、その夜は家族水入らずを楽しみ、翌日は高校時に部活仲間であった者と食事をするという予定が組まれているらしい。僕と逢うのは差し詰め京都へと帰る最終日の昼からという事になる。
進学後、初めての帰郷という事で、まるで生存確認のような集いを行いたくなるという気持ちは僕も経験があるが故、理解する事ができる。その他様々な誘いがあったのだろうが、椿はきっとそれらを断り、僕へと逢う機会を作ってくれたのだろう。それは有り難い話なのだが、しかしながら一つだけ疑問に思う事があった。
それはGWの期間だけ僕とは電話ができないという事。
椿がまだ地元にいる時、僕とのやり取りはメールのみで、電話をするようになったのは京都へと旅立った後からであった。実家で電話ができないという事は、未だ僕の存在を両親に話していないという事を意味する。
『この帰郷の際に話すならタイミングは確実に初日の夜。もしそうだとしたら次の日から電話をする事は可能になると思うのだが、現状維持という事はやはり…。』
件の夢を見てしまってからというもの、不安感が心へとこびりつき、些細な事でも妙に勘ぐってしまうようになっていた。寧ろ椿に対しての猜疑心がもたらした夢だったと形容した方が正しいのかもしれない。
あれからあの夢の要因を数日間考え抜いた結果、それはやはり、毎晩椿から語られ続けている意味深な男女共有の話がもたらしたのだという結論に至っていた。勝手な妄想だと自身へと言い聞かせてみたのだが、やはり止む事のないこの不安定…。
しかしそんな事を考えても埒が明かず、結局のところ椿の言う通りにしかできない事など明白であり、僕はその意見を鵜呑みにしたのだった。
そして四日の夕方に『これから愛媛に帰郷します』というメールが届き、当たり障りのない内容で返信した。するとどこか浮かれた内容のメールがすぐに送り返されてきたのだが、何故だかどうしてこれ以上メールを続ける気が起きず、携帯をそっと机の上へと投げた。
翌日の朝に『おはよう』という文と共に、前日に家族で食事した時の画像が貼られたメールが届いたのだが、その後、携帯は一度もなる事はなかった。夜に僕からメールしてみたのだが、やはりそれに対しての返信はなく、一人悶々とした気持ちを煩わせながら五日の宵を過ごしていた。
GW最終日の六日の朝。
前日にセットしていた携帯アラームが鳴り響く音を止め、ディスプレイをぼんやりと眺めた時、昨日の夜に送ったメールに対しての返信がない事を知り、僕は思わず深い溜息を漏らした。
この日はインターの側にあるファミリーレストランで正午に落ち合う予定になっている。出かける前にやらなければならない事を済ませておこうと、休日にも関わらず早起きをしたのだった。
洗濯や部屋の掃除。そして、家へと持ち込んだ仕事に手をつけていた時、メールの着信音が鳴った。
『ダーリンおはよう、メール返せなくてごめんね。もうすぐ逢えるね、超楽しみ♪』
椿からのメールを確認した瞬間、先程までの不安感は嘘のように晴れていった。
携帯には十時四十八分と記載されていて、落ち合う時間は十二時ジャスト。そんな時間になっていた事に初めて気がついた僕は、そろそろ準備しなくてはならないと、とりあえずシャワーを浴びながら今日の予定しているタイムテーブルを思い返していた。
椿はファミリーレストランで友達と昼食を取るという事で、母親にそこまで送って貰い、その後は高速バスで京都へと戻るという予定としているのであったのだが、実は僕の車で岡山駅まで行くという話になっているのだった。
高速代やガソリン代は僕が持つという事で、使う必要のなくなったお金は今後の為に貯金しておけばいいという提案。椿も大層喜んでいるのは、今し方届いたメールの文面から見ても間違いないであろう。
そう思いながらシャワーを浴び終えると、この日の為に用意していた服を着て、洗面台の前で自分の姿を確認した。
いつもリーバイス製と決めている僕には珍しく、ボブソン製の少し大きめなGパンと、グレイのTシャツ。アウターには紺色のカーディガンと、ピンクと藍色のストライプ柄ストールを首元に巻き、お気に入りであるラブラドライトの数珠を手首にコーデした。そして髪は、003社のワックスでくしゃくしゃに立たせただけというシンプルなトータルに、我ながら完璧だと思った。
リビングに戻り時計を見ると、針は十一時半を回った所を指していて、約束場所へとたどり着くにはいい頃合いである。
前日に用意していた椿が喜ぶであろう、お菓子やミルクティを入れたナイロン袋と、昔から大切に使っているゴルチェバックを手に取り、玄関を後に車へと乗り込んだ。
何が起こるか分からない二人だけの一六小節の旅の始まりに、僕の心は年甲斐になくときめいていた。
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