第14話 三 あの日の嘘
遠距離恋愛だから仕方がないのだが、メールと電話という媒体でしか彼女の近況を知る事しかできなかった。
何もかも始まったばかりの中、人の輪に自然と溶け込めたと嬉しそうに話す椿の口調から乗り遅れる事なく、キャンパスライフを無事スタートできたのだと僕は思った。
大学内の食堂のメニューが意外にも美味しく、その中でもオムライスの味が抜群だとの事。どうやら椿が通う大学は山を切り崩して立てられているらしく、辺り一面を一望しながらの昼食はまた格別なようで…。
今度僕が京都へ訪れた際、是非そこで昼食を一緒したいといきなり切り出してきて、椿と同年代に囲まれながらご飯を食べている自分を想像すると、思わず飲んでいた焼酎を噴き出しそうになってしまった。
まあそれはいいとして、椿が楽しそうに語る話はそれではなく、時間を共有するようになった仲間達の存在の事であった。
個性溢れる皆の一面や、田舎では必ずして理解してもらえなかった自身の感性を、あたかも当たり前のように受け入れてくれる態度に驚愕しつつも、心から嬉しく思えた出来事を涙ながらに語っていた。
高校生活では、同級生から(多分一部のだと思うのだが)結構なはみ出し者扱いを受けていたと以前自身から直接聞いていた事もあり、その会話内容から何の心配もいらないと僕は思わず安堵の息を漏らした。
嘗ての都会暮らしで感じた孤独を味わって欲しくないという想いと、
『雨宮椿を一生幸せにする』とあの日の誓いが故、何かと心配している僕に「ダーリンは親より私に気を配ってくれる」と椿は言った。
椿の両親は生粋の田舎育ちであり、都会での意外と厳しい生活環境を知らない。大金を叩いて娘を都会に出したという事で完結しているという事は十二分に予想できるのである。
僕が嘗ての都会暮らしで何より困った事は蛇口を捻ると出る『水』であった。風呂を溜めた時、白く濁る水から匂うカルキ臭に異様さを覚えた感覚は今もこの胸を離れない。
健康志向の生活が事うるさく言われるようになり、あれから随分月日が流れたこのご時世。先日京都に行った際、大分改善されているだろうと蛇口を捻った時、僕は驚愕した。
カルキ臭は更に強力さを増していて、蛇口先に申し分ない程度に設置されているフィルターからの水の出が悪い。それを外してみると、ろ過している所に小さな木屑のようなものが詰まっていた事を目の当たりに したのだった。
こんな水を使っていては、椿がいつか病気になってしまうと懸念した僕は、水道水で米を炊く事やケトルの湯を沸かさぬよう指示し、翌日にとりあえず付け焼刃のように近所のスーパーにてミネラルウォーターを二ダース買った。
これだけあれば当面の間は困らないであろう。
残り数本となった際、連絡をくれるとこちらからすぐに送る事も約束してこの話は終わったのだが、その数日後、両親から『水送ろうか?』という連絡を受けたらしい。
どうやら椿は気を使って水の事を両親へと相談したのだと僕は直観し、「他に困った事があったら何でも相談してな。」とだけ告げて、その問題は幕を閉じた。
これが僕に気を使ったという意味を表しているという事は分かっている。が、これから必ず苛める事となる要因に見て見ぬふりをする訳にいかない。これまで培った経験を活かし、椿が日の当たる路を真っ直ぐに歩く事ができれば、愛すべき者の縁の下の力持ちになれればと…。
だからこそ、此度の問題が逸早く解決できた事が何より喜ばしかった。
『四月七日の入学式から二週間余り過ぎようとしている今、何の懸念を抱く事のない椿はきっと幸せの絶頂期であるに違いない。』
そう思うと、自然と僕の表情は綻んでいった。
窓越しに見える煙突の光にふと視線を向け、気持ちを落ち着かせるとPCに再び視線を戻し、小説の続きを手掛けながらも、心の片隅では今宵の椿からの連絡を今か今かと待ち侘びているのであった。
大学生という立場は意外と噂ほど暇ではないらしく、高校同様に宿題を与えられたその上、予習復習を怠ると次の日の受講に何らかの影響を及ぼすとの事。
椿の場合、どうやら一回生時で受けなくてもいいほどの受講数を選択してしまったが故、ここまで多忙になってしまったのだとか。それを真面目と捉えたらそうなのかも知れないが、それもまた違う気がする。
大学のシステム上、単位を早めに取ってしまうと後が暇になる訳で、つまるところ、椿がこのまま三回生になった時、時間の過ごし方が分からないほどの莫大な時間だけが残される事が大いに予想できるのである。
ただ単に後先考えずに行動しただけなのだろうが…。
まあとりあえず、一日の成すべき業を終えたという報告を受けた後、僕から電話をかけるという事が既にパターン化されようとしていて、大体は日が変わった三十分くらい後に電話をかけ始める。
始めの頃はもっと早い時間帯だったような気がしなくもないが、僕と椿の帳尻を合わせていたところ、自然とこのような形に治まったのだった。
実は僕にとって一つだけ都合のいい事があるのだ。
小説を書き進めていると、この二十四時を過ぎくらいに必ずと言っていいほど、張りつめた感情がふと萎えてしまうという謎の心境に見舞われてしまのである。堪らずここで恵比寿ビールと煙草という悦楽に逃げてしまい、その後だらだらとした宵を過ごしてしまう事もしばしば…。
昔はこのような事に至らなかったはずなのだが、近年これがとてつもなく酷い。これが俗にいう老いからくるものなのだろうか、ただ酒を欲しているだけなのか。その事は敢えて自ら追及しないでおこうときつく奥歯を噛みしめたのだった。
その時間と椿の電話が一致した事で、僕にとっては素晴らしく無駄のない時間配分となり、しかも楽しい会話に心が満たされていくのが自ずと分かるのである。
今でも驚きを隠せないのが、電話を切った後に書く物語の進み具合が尋常になく早い。それがどれくらいかと申し上げると、一年ほど前からノロノロと進ませていた長編小説を、ものの一か月も経たない内に仕上げてしまうほど。人の心というのは単純であり、ご都合的なものだと妙に納得した瞬間であった。
それが先週の話であり、今はまた新たな物語を書き始めたばかり。今回の物語は…。いや、敢えて隠す事にしよう(笑)
ふと喉の渇きを覚え、冷蔵庫へ向かおうとしたその時、PCの横に置いてある携帯が激しく鳴り始めた。ディスプレイには椿と表示されたメールの着信音。
とりあえず恵比寿ビールで喉の渇きを潤し、時計に視線を向けると、針はまだ二十三時を過ぎたところを指していた。
「えっ?早っ…。」
僕は思わずそう一人ごちたのだったが、丁度気持ちが切れたこの時に連絡をくれたという偶然の一致がささやかながら嬉しかった。徐に恵比寿ビールを一気飲みして、焼酎午後ティー割りを手にアトリエに戻り、携帯を手に取った。
コール音が数回鳴った後、
「ダーリンっ!お疲れ様っ!!」元気な椿の声が耳一杯に鳴り響いた。
「おお、椿。いつもより早い時間じゃけどどしたん?」
「今日は宿題がいつもより少なかったから早めに電話できたんだっ!えへへっ。」
「そか、それはよかったな。風呂は入ったか?」
「うん、お風呂は今上がったばかりだよっ!今日は頑張ってシチュー作って食べたんだぁ。あ、写メ取ったから、後で送ろうか?」
「うん、是非送って。」
これまでが実家暮らしだったという事で、料理は愚か、家事を全くもってした事がないという。そんな椿が、ある日突然自炊開始を宣言し、何故かと問いたところ「いつかダーリンの元へ嫁ぐ時の為の修業よ♪」という事らしい。
そのような事を何故突然思うようになったのかは謎であるのだが、もしかすると共通の知人である唯ちゃんから何かしら聞かされていたのかもしれない。
唯ちゃんが初めて来客したのは確か中学生の頃。時折訪れた時に話を聞いていると、徐々に心の内を明かすようになり、いつしか今抱えている悩みや憤りを相談してくるようになった。僕の拙い経験を踏まえてその打開策を見出している内に、心中をよく知る間柄へとなっていったのだった。
僕の過去を唯ちゃんから聞いて、椿がこう言い出したと仮定したならばしっくりくる。でもその事に関して僕は深く掘り下げる気も起きず、寧ろ面倒な説明をしないで済むから好都合だと思った。
「あ、ダーリンっ!今日はとても素敵な事があったんだよっ!聞いてくれるっ!?」
「お、おう…。どうした?」
今日の出来事を嬉しそうに語りだした声を何となく聞きながら、遠くに視線を促し、溜息交じりに煙を吐いた。
決して語られる事に興味が沸かない訳ではないのだが、最近になって『男の子から食事に誘われた』とか、『上級生からサークル勧誘をしつこくされた』という内容ばかり。初めの方は大学生になりたて特有の浮かれによるものだと思い、聞き流していたのだが、何日もこのような内容が続くと僕の心に微かな不安感がよぎり始める。
しかしそれを咎めてしまうと、二人の間に何らかの亀裂が走る気がして、結局のところ聞くに徹するしかできないでいるのであった。
「でね、ダーリン。二十五日のサークル勧誘祭でやる演劇部の新入生歓迎演劇をね、最近友達になったりさりさと見に行く事になったのっ!!私、超楽しみっ!!」
「もう明後日の話じゃな。楽しみならよかったな…。」
僕はそう言いながら煙草の火を揉み消して焼酎を呷った。
椿が役者を志す事は心から応援している。演劇の稽古を積み重ね、いつしか舞台へと上がる日が訪れた時、きっと椿は脚光を浴びて一躍劇団の看板娘となるであろう。これまで数々の舞台役者の取材をしてきた経験がそう思わせるのだから間違いはない。
それは椿が大望している事であり、大層喜ばしい事ではあるのだが、勉学や稽古と文武両道の多忙を極めた生活と、これより更により多くの人が椿の元へと集まってくる。そんな中、果たして椿の胸の中に僕の居場所はあるのだろうか…?
更に言うと、椿が役者に対して抱く志は大学演劇で留まるのか、その先を視野しているのかという事。
今ここまで考えるのは必要ないとは思うのだが、小説を書く者の性か、先の展開を妙に深読みしてしまうといういつもの悪い癖である。
「でね、この間声かけてくれた先輩、映画研究部だったらしくてね、歓迎演劇終わった後に、そこもちょっとだけ覗こうかと思ってるのっ!」
椿のその声でふと我に返った。
「あ、そか…。えんでない?楽しんできたらええやん。」
どうやら現時点では演劇にそこまで固執していないらしい。少し考え過ぎていた自分に叱咤しながら、もう一度煙草に火を着けた。
椿からの取り留めのない話を聞いている内に、時計の針は一時に差し掛かっている事に気がつき、小説の続きを書くと電話を切った。
間接照明を一つだけ灯している部屋に再び静寂が舞い戻った。
僕はもう一本恵比寿ビールの栓を抜き、何となくざらついたままの気持ちを有耶無耶にするように一気に喉へと流し込んだ。
椿へとピンポイントに勧誘したその男の狙いなど明白であり、サークル勧誘の一環という軽い気持ちで顔を出した時が最後。部員から引く手数多に誘われ、何らかの形で関わる事となるだろう。
あれもこれも全部という気持ちも分からなくもないが、ペース配分を予測できず詰め込んでしまう性分であるらしい椿が、これからどのような一途を辿るかなど僕には分かり過ぎているのである。
『あの日僕へと語った演劇に対しての熱い想いは何だったのだろうか…。』
考えてみても埒が明かず、溜息交じりの煙を吐き、視線を窓の外に向けた時、窓を叩く雨の音に初めて気がついた。
宵中の雨は格別に好きで、猛る気持ちは一瞬にして癒されていく。
この用意されている路の中で、二人に何が待ち受けているのかは皆無である。僕は何より遠く離れたこの場所で椿の事を想い、これまで培った経験を元に意見する事しかできないが、それが彼女を護る抑止力になるのであれば本望だと僕は思った。
雲の流れは東に向いて進んでいる事から、京都の地は明日、曇り空もしくは雨がもたらされるだろう。
何故だか不甲斐ない想いに陥った僕は、雨音に密かな想いを託しながら、秘蔵のウイスキーを呷っていた。すると気怠さが全身を襲い、ベッドへと倒れ込んだ。
眠りについた後に見た夢は椿の事ばかりであったのは言うまでもない。
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