第11話 二 邂逅と戸惑い

 近くにあるコンビニで適当に食料を買い漁り、二人は何故か無言のまま私のマンションへと足を進ませた。


 ここら一帯はいつも静寂さが護られていて、そんな中、まるで他の住居に隠させているかのように細路地の中にひっそりと佇んでいるこのマンション。三階建ての一フロアに二つしか部屋がなく、二階の右側の部屋が私の住まい。

 近隣住人の迷惑にならぬよう、抜き足差し足で階段を上っていき、静かに扉を開け、電気をつけた。


 玄関を入った右側にシャワールームがあり、左側には台所とトイレが配置された通路。そして一枚の扉を隔てた向こう側にメインルームがある。

 買ってくれた物を冷蔵庫へとしまい、メインルームの電気をつけると、彼は荷物を床に置き、まるで物珍しそうな視線で部屋中を眺めていた。  

 きっと彼の眼には現役女子大生の部屋が珍しく映るのであろうか。何だか気恥ずかしくなってきて、先にシャワーを浴びるよう彼へと促した。するとキャリーバックから荷物を取り出し「ありがとう」と私に笑顔でそう呟いて、扉の向こう側へと消えていった。


 向こう側で水の流れる音が微かに聞こえ始める。別にどこを見る訳でもなく、只々ぼんやりと空間を眺めている私の心は妙に冷静で、心の整理と準備だけ再度整えながら、針のように脈打つ自らの鼓動を数えていた。

 水の流れる音が止み、シャワー室が開かれる音が聞こえた。次は私の番だと、手元に用意していた下着を包んだパジャマを握りしめた時、先程まで冷静だったはずの私の心が激しく動いた。


 扉がゆっくりと開かれたそこから、湯煙とシャンプーの入り混じる微かな香りと共に、すっきりとした面持ちでタンクトップと半パンというラフな格好の彼。その手には先程コンビニで買った恵比寿ビールが持たれていた。

 サイダーの栓を抜いた時と同じく心地よい音が上がると、それを勢いよく飲み始めた。


 これまで見た事のなかった男性のラフな格好と、飲むたびに動く喉仏をぼんやりと眺めていた私は、何故だかどうして居た堪れなくなり、彼の側を黙って通り過ぎ、服を着たままシャワールームへと逃げるように駆けこんだ。


 メインルームの扉が閉まる音を確認した後、深く息を吐きながら服を脱ぎ、外へと放り投げていつもより熱いシャワーを浴びた。

 熱い湯は嫌いな私であった。でも、この時はいつもと違う事をしなければ、今すぐにでも暴れ出しそうなこの感情を抑えられなかった。


 いつもでは考えられないくらいの早さでシャワーを浴び終え、入念に乾かす髪も生乾きのまま部屋へと戻ると、彼は笑顔で迎えてくれていて、徐に差し出してきた飲み物を受け取ると、勢いのままそれを喉に流し込んだ。


 それからというもの、お互いが共通する話題に花咲かせながら宵を過ごしている中、いつしか手と手が紡がれ、いきなり唇へと篤い熱が重なった。

 驚いて瞳を見開かせている私に、彼は視線だけで合図すると、それに頷いて部屋の照明をダウンさせた。

 暗闇が部屋を支配し、お互いの影だけしか見えなくなった中、今度は大胆にも私から彼に口づけた。すると彼は優しく私の肩を抱き、耳元で「椿、愛してる」と呟きながら、私の胸元のホックを外し始め、吐息と軋む音が漆黒の闇を白いものへと変えていった。


 気がつくと窓にかかるカーテンの隙間から薄白い光が差し込んでいる事に気がつき、素肌のままの身体を絡ませながら、

「そろそろ寝ようか…。」彼は優しく呟いた。

 私は静かに相槌すると、温もりを微塵も逃がさぬように、彼の身体をきつく抱きしめた。

頬に宿った優しい温もりは、夢か幻かなど私にはどうでもよく、今は全ての事忘れ、感じている幸せに身を委ねたかった。

 布団に残る温もりと記憶に塗れながら、私は豊かな眠りの園へと誘われていった。


「椿、おはよう。」


 私が目覚めた時には彼は既にベッドから降りていて、キャリーバックの中身を丁寧に片づけていた。

 時計を見ると、針は六時半前を射していて、私からすると少しだけ早い目覚めである。


 一般的には月曜日は週の始まりであるのだが、彼のお店は定休日であり、第三週だけ日曜日もお休みにしていて、所謂、月に一度だけ連休を設けているとの事。その貴重な連休に、これから毎月私の元へと訪れてくれるという話になっているのだった。


 日曜日はお互い休みだからゆっくり逢えるとしても、実のところ月曜日は朝一からの受講がある為、八時半には大学に行っていなければいけない。この家を離れた瞬間が二人の別れの時となるのであった。

 何を想い、何を考えながら彼は今を過ごしているのだろうか。

私は再び布団に包まり、こちらへと背を向けて作業しているその姿をぼんやりと眺めていると、切ないほどに胸がきつく締めつけられる感覚に囚われてく。


「ダーリン…。」

「ん?どした?」

 彼は一度手を止めてこちらへと視線を向けた。

「私、八時にはこの家出なきゃいけない…。」

「うん、分かっとるよ…。」


 再びこちらへと背を向けて、作業を続かせながら呟くように言った。

 きっと何かしら思う事を我慢しているのであろう。こちらへと一瞬向けた視線に暗い光が宿っているのを私は見逃さなかった。


 キャリーバックの蓋を締め、部屋の扉の側に立てかけると、彼は深呼吸のように大きく息を吸った。そしてまるで何かを整えるように背を伸ばしながら細く息を吐き、こちらへとまたたび視線を向けた彼の瞳には先程の暗い光は消え失せていた。


「よし、帰る準備できた。椿もそろそろ大学行く用意せなっ!」

 私はベッドから降り、徐に彼を抱きしめた。

「ダーリン、私、今日学校休む事にするよ…。」

「えっ?それはいかんで。ちゃんと学校行かな、ついていけんようになるけんっ!」


 私の体温を拒む事なく、そう彼は言った。

 先ほどまで薄暗かったはずの部屋の中は、カーテンの隙間から入るだけの光に薄く映し出されている。ベランダで擦れるハンガーの音が微かになった。外は今日もきっと晴れやかな青空で、心地よい春風が吹いているのだろうと私は思った。


「受講内容は友達にノート写させてもらうし、月曜日の授業はそんなに必要なものでもないの。だから休んでも大丈夫だから…。ねっ?」

「そりゃ、一緒にいたいけど…。」


 まるで子供のような表情を浮かばせて、私の視線から逃げるように顔を逸らしながら直立不動で佇んでいた。


「ダーリンは何も心配しないで。本当に大丈夫だからっ!!」


 彼は初めて私へと視線を合わせて、戸惑う表情のまま力なく一つだけ頷き返した。私は彼から腕を離し、既にここを出ていく準備を施し終えていた彼の恰好を素早く確認する。


『タイトなジーンズの上に、紫の小さな花がポイントされた薄生地のジャケットにインナーは白Tシャツ。多分手元にはシルバーのブレスレッドがまかれているだろう。』


 至ってシンプルではあるが決して悪くないと思い、今日着ると決めていた服をクローゼットから取り出した。


「よし、決まりっ!!ダーリンはこれから何がしたい?」

「えっ?とりあえず、朝ご飯食べに行こうと思っとったけどなぁ…。」


 いきなりの私からの問いに、拍子抜けた表情を浮かべながら、私の着替えをちら見している彼の視線が、脱ごうといているシャツ越しにでも分かる。それはファッションをチェックしているものではない事も…。


 白生地に小さくポイントされている黒い花が散りばめられたアリス柄のワンピースの下にはタイトな黒いパンツ。これから髪にストレートアイロンをあて、ワイン色のベレー帽を被るという私なりに至ってシンプルなファッション。きっとこれだと違和感なく二人の路を歩いていける、…はず。


「うん、ならこの近くにクロワッサンが美味しいパン屋さんがあるんだけど、是非そこへ行きましょうっ!!」


 着替え終え、有りっ丈の笑顔を浮かべた私に「うん、そうしようか…。」と、未だ困惑気味の彼。


「もう少しで準備終わるから、ちょっと待っててねっ!!」


 部屋の片隅に置いてある卓上の鏡で手早くメイクを施し、髪にアイロンを当てていた時、その横にある目覚まし時計の針は八時半に差し掛かろうとしていた。


『もう、確実受講には間に合わない…。』


 そう思いながら、何食わぬ顔をして扉の側で私の準備を待つ彼の姿を横目で見た時、何故か胸の中がざわめいた。

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