第10話 二 邂逅と戸惑い

 タクシーは心地よいスピードで路を進み、私達は古き良き京都の景色を堪能していると、出町柳駅と表記された掲示板の側でタクシーは止まった。


 京都駅からここまでそう時間が掛からずたどり着けたという事は、そう離れていない場所という事なのだろうか。会計を済ませ下車した彼は、辺りの風景を懐かしそうに眺め、深く息を吸いながら背伸びをしていた。

 私も続いて下車すると、タクシーはいそいそとこの場から走りさっていった。


「んあーっ、懐かしいっ!全く変わっとらんのぅ。」


 勿論私はここに来るのは初めてであり、こう懐かしむ彼は、嘗てこの場所で何があったのか少しだけ気になった私。


「ダーリン、ここへはよく来てたの?」

 背伸びするのを止め煙草を咥え、そして火を着けた。

「まあ、京都へ来た時は必ずと言ってええくらい、哲学の路へ行っとったけんなぁ。」

「そうなんだ、ふーん…。」


 彼はどこか物憂げな表情を浮かべ、深く煙を吐きながらそう呟くように言った。まるで促すようなその言葉に少しだけ不安な気持ちになったのだが、これ以上追及する事は野暮である。私は言葉を噤ませ、煙草を吸い終えるのを待つ事にした。

 吸い終えた柄を携帯灰皿へと片付け、ガムを口に放り込んだ。


「ごめんお待たせ。さて、行こか。」


 来た方角の反対へと足を進ませる。

 細い路地の端には古い木造建築が所狭しに軒並み、その風景をぼんやりと眺めながら歩いていると、先程とは相反するようなビルディングが立ち並ぶ大通りが現れた。

彼はどちらとも指示する事なく、足を進ませる方へ何気なくついていくと、視線の先に覆い茂る木々の中にキャンパスと思わしき大きな建物の屋根が見え始めた。

 道を進ませるたび、その建物の姿が徐々に大きくなっていき、『今出川通』と記載されている交差点にたどり着いた。


「これが京都大学じゃ。んで、この坂道の先に哲学の路があるんよ。」

 これが、かの有名な京都大学…。


『様々な物語の現場となり、現在でも全国の学生達が進学を切望する夢の舞台を今目の前にしている。』


 その佇まいは長く深い歴史を醸し出しているように感じるのはその偉大さが故の幻なのだろうか。

 身体を硬直させながらしばらくの間見尽くしていると「椿、信号変わったけん行くで。」と、徐に肩を揺らす彼の手に私は我に返り、坂道の方角である横断歩道を急いで渡った。


 キャンパス内に続く木々の影が覆い被さる坂道。

 嘗てここを訪れた自分の思い出を密かに這わせ語る彼の話を耳に、時折、路の片隅に現れる古書店や、情緒溢れる洋食屋の佇まいに気持ちを浮気させながら路を進ませていると、覆い被さるような木々の影が徐々に薄れていき、やがて目の前は青い空と車通りのやや少なめである大通りに差し掛かっていた。


 タイミングよく歩行者信号は青で、横断歩道を渡り終えたそこには、左側の細い水路の側に『哲学の路』と、右側から書かれている木製の看板があった。

 桜の花はすっかり散り、新緑が眩しい。まるで私達を暖かく迎えてくれているかのように思え、憧れの哲学の路を前に私の気持ちはすこぶる高まった。


 道端に落ちる花弁と、水際の香しい土の薫り。せせらぐ水の音と夕方だけど眩しい日の光。私達が進む古道の先に手を繋いだ老夫婦の背姿が見えた。

 和気藹々と会話弾ませながら歩く二人は、今の私達と何も変わらないと思い、ふと私達の未来をその背姿に重ね合わそうとしたのだが、今は全く想像できなかった。

それは私が若輩であり、人生経験不足だからなのだろうと…。

 彼の視線の先もその老夫婦の背姿に向けられていて、きっと何かしらの想いを馳せながら眺めているに違いない。そう物語る朧気な彼の横顔を、私は少しの間眺め尽くしていた。


 気がつくと路が二股になっている場所へたどり着いていて、左へ行くと銀閣寺へと、右側は哲学の路の続きであるという道標が立っていた。


「銀閣寺はまた今度こよな。」


 笑顔で彼はそう言って、右側へと歩を続かせた。

 左側の水路にはさらさらと流れる涼しげな水の音。右側には小物やガラス細工の雑貨店や、お土産物売り場がほどよく立ち並んでいて、所々をまるで冷やかすように立ち寄りながら品々を物色。御揃いのカップや小皿。渋い掛け軸や、センスのよい扇子…。あ、すいません。


 そして映画のワンシーンを模ったような住居の側にあるカフェにて、抹茶オーレで束の間の休息の中でも会話は大いに盛り上がった。

 きっと周りにいた人達は「五月蠅いカップルだ」と訝しく思っていたに違いない。しかし今の私にはそのような事などどうでもよく、ただ、この刻を心から楽しみたい、彼との感性を共有したいと、そんな気持ちで溢れ返っていた。


 店を出ると、先ほどまで空を染めていた赤い夕焼けに宵闇が迫ろうとしていた。ここから進む路は両側草木が覆い茂り、時折密かに佇む街頭の光が闇をより深くしているように思え、私は恐怖の余り思わず彼の腕へとしがみついた。

 虫の声が微かに耳に届き、凛とした空気を肌で感じながら足を進ませていると、土壌だったはずの道が、いつしかアスファルトへと変わっていた。


 まるで闇をぼんやりと溶かすような薄い光が、目の前から漂い始めたと思うと、草木も徐々に薄くなっていき、その闇から抜け出せたそこには、仄かに彩らせる夕暮れの光が正面から迎えるように私達を染めた。


 お寺の鐘の音と、土の薫りを乗せた乾いた風。遠くで棚引く雲の流れと、赤く深い空。

 哲学の路を十分堪能する事ができた事が感無量であり、しばらくの間その美しい情景に感覚を奪われていると、突如私の視界に闇が覆い被さってきた。季節の匂いと、微かに冷たい外気から護ってくれるような暖かな温もり。脈打つ激しい音と、そして優しさがもたらした闇の正体。

そう、彼に抱きしめられていたのだった。


 正直、少し息苦しかった。でもそれよりこの積極さが嬉しく、そして甘酸っぱく広がる感情に、何故か胸が押し潰されそうになった。

 視界に再び光が戻ったそこには、逆光に翳る彼の真剣な面持ち。私の胸は再び激しく高鳴り、そっと瞳を閉じ、彼を…待った。


 鐘の音は止み、風の音に揺さぶられる刃の音と、騒がしくなった虫の声。そしてすっかりと暗くなった景色の中、二人はそっと影を重ね合せた。

 彼はきっと私の事を考慮し、ここを、そして今日を初めての場所に選んだのだろう。人生初の彼氏と憧れていた哲学の路で初キッス。そして…。以外と柔らかなその感触に、私の全身から力が抜けていった。


 一体どれだけそうしていたのだろうか…。

 意識朦朧の中、気がつくと彼の顔をぼんやりと見つめている私がいた。


「椿、本当に今日、家に行ってええんじゃな?」


 どこか心配そうな面持ちで、私の顔を覗きこむ視線を誤魔化すように、私は顔を背けさせながら一つだけ頷くと、彼は少し離れた場所に止まってあったタクシーを呼びにこの場から離れていった。

 本来、私の家の近くにあるホテルで宿泊する事になっていたのだが、話の流れからというか、今となれば強引にそう持っていかされたように思うのだが、気がつくと私の家に泊まる事を許可させられていたのだった。


『男女が一つ屋根の下、二人きりで一夜を共にするという事は…。』


 そう思い返し、何度も断ろうと思ったのだが、連夜囁かれる愛の言葉と優しさにうまく話を切り出す事ができず今に至るのである。

 そうこうしている内に彼がこの場へと戻ってきて、私をタクシーの中へエスコートする仕草を施した。

『きっと、多分。いや、確実にそうなるだろう。』と、私は覚悟を決めてタクシーへと乗り込むと、彼も滑り込むようにタクシーへと乗り込んだ。


「椿、行先を…。」

「あ、そうだった。えっと…。」


 親以外まだ誰も言った事のない私の家に初めて人が訪れようとしている。しかもあれだけ毛嫌いしていた男性が初めてであるという事実にどこか皮肉を感じながら、私は運転手さんに行先を告げた。

 暗闇に一つ、また一つとネオンが増えていく情景を横目に、タクシーは勢いよく道を進ませていく。


 ふと脳裏にラスクの姿が浮かび上がった。何故か翳る表情を浮かべ、こちらを眺めているだけの彼女に、私は思わずはっとさせた時、心に微かな痛みが走った。

 運転手と楽しそうに会話している彼の声に相反するような彼女の幻影。何か問いかけようと私が手を掲げた時、ラスクの姿は過ぎ去る景色の中に消えていった。

 言葉のないラスクの姿は、私の心にあるものが映し出した幻なのだろうか。しかし今更どう思ってみてもこの状況を覆す事などできない。


『大人である彼とお付き合いを決めたその時から、こうなる事など微かに感じていたのだから…。』


 そう思い返して正面へと視線を向けた時、見慣れた風景が流れている事に気がついた。この道を進んだそこに私が指定した『柊の別れ』の交差点がある。

 然程時間がかからない所でタクシーは止まり、下車したそこは私の新たに住む事となった街。既に当たり前となった景色と季節の匂い。そして、新たに刻まれる事になる今宵の出来事。


 男は責任を女は覚悟を胸に這わせ、様々な想いを風に乗せて、薄暗い風景の中、ゆっくりと二人は進んでいった。

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