第8話 二 邂逅と戸惑い
『何故ここまで緊張しているのか…。』
微かな胸の高鳴りを噛みしめていると、心地よい春風とまだ立ち込める桜の薫りが私を包み、有耶無耶にしていった。
そうこうしている内に店へとたどり着き、何食わぬ顔で扉を開いた。すると、あの時と同じように、彼は笑顔で私を迎えてくれたのだった。
前回はカットという事で、一時間も掛からぬ間に終わったと思うのだが、今回はカットと待望の前髪ストレート。人生初であるのだからどれだけ時間が掛かるのかはまだ分からないのだが、友人の噂によると大層時間が掛かるらしい。しかし、あの時のように違和感なく過ごせるなら、今回も楽しく時間を過ごす事ができるだろう。
「雨宮さんは今年高校卒業されたのですね?おめでとうございます。どこかへ進学されるのですか?」
施される技術の中で、初めて彼から問いかけてきた言葉が何故か嬉しかった。
「あ、京都の大学に進学するんですっ!!私、とても頑張ったんですよぉっ!!」
「そうでございましたかっ!!それはそれはよかったですねぇ。京都ですか…。」
彼は視線を少しだけ遠くさせると、何故か施していた手を止めていた。
「どうかされたのですか…?」
その言葉に彼は誤魔化すような笑顔を浮かべ、再び手を動かし始めた。
「いえ、私は嘗て大阪に長く住んでいたものでして、京都もよく訪れた土地の一つでありましてですね、様々な思い入れがあるのですよ、ええ…。本当にいい場所でございますっ!!」
「あ、そうなんですねっ!?京都のいい場所ってどこかありますか?今の内、教えてくださいっ!!」
私の更なる問いかけに少し驚いた様子で、何かを思い出しながら言葉を発した。
「うーん、雨宮さんと私の年齢差で、適切なアドバイスができるとは思えないのですが、強いて言うなれば京都、三条木屋町ですなっ。ここはいい酒といいアレにありつける場所で御座いましてですね…。」
「私、まだ未成年なのでお酒は飲めません…。」
何を思い返していたのか、少し邪な表情を浮かべながら語りだした彼の顔が私の言葉で一瞬にして凍りついた。
「あ、そ…、そうだね。ちょっと悪乗り。うん、他にはね、やっぱ雨宮さんにはまだ渋いかもだけど、銀閣寺の側にある哲学の路はよく行きました。そこは四季折々の花々が咲き乱れるいい場所でございますよっ!」
軽く咳払いをして、焦る口調で言葉を訂正した彼の仕草に私は思わず笑ってしまった。『きっといい人なんだろうなぁ…。』と、ふと感じ、この場所へ訪れる事をこれまで何故あそこまで拒んでいたのか疑問に思うほどであった。
それが原因だったのか、はたまた要因だというのか…。私の中の何かがガラガラガラと音を立てて崩れていくような気がした。
「哲学の路っ!!実は私、そこ行ってみたい場所の一つなんですっ!!お兄さん、私をそこへ連れて行って下さいっ!!」
「んっ!?」
眼を見開かせ、私の顔を覗き込んでいる彼の仕草。本当に可笑しかった。
冗談半分で言ったものの、実はそうなったらいいなという気持ちもなくはないという複雑な感情。それと、これに対してどう切り返してくるのかという彼の反応を待っている自分がいる事に正直驚きを隠せなかった。
「いや、えっと…。まあ、私が京都へ行った際に、河原町とかで偶然会う事があったなら連れて行ってあげますよ。うん…。」
「はい、そうなった時には是非お願いしますっ!!えへへへ。」
偶然会ったらというぼんやりとした表現であったが、完全に拒否されなかったという事が何より嬉しく、私の心中は高揚していった。
それからというもの、趣味や嗜好をネタに順々と話を掘り下げていくと、歳が離れているにも拘らず、意気投合してしまうほどの価値観や物事の見方。周りの皆と全く違う音楽の趣味や、美術的な感性が明らかに酷似していて、私は何度も驚愕の声を上げながら会話は続いていった。
彼が幼稚なのか、私が大人びているのかは分からないが、これまで誰しもに否定され続けていた事を肯定して頂き、しかも話が盛り上がっているという今の状況が何より嬉しかった。
彼はヘアアイロンを手際よく前髪に這わせ終えると、何やら白い液体を素早く塗った。
「はい、このお薬をつけて10分置いた後、お流し致しましたら全ての技術行程は終了になります。お待ちの間、紅茶などいかがですか?」
どこかのテンプレのような言葉に「お願いします。」と応えると、彼は笑顔で一礼をしてその場から離れていった。
先ほどまでの会話で気がつかなかったのだが、店内には静かにクラシックが流れていて、確かこれはロシアのピアニストである『ラフマニノフ』。中々いい趣味だと思った。
しばらくその美しい旋律に聞き惚れていると、香しい紅茶の薫りと共に、カップとささやかながら洋菓子を乗せたトレーが目の前にある台に置かれた。「ごゆっくりどうぞ…。」と呟き、そそくさと離れようと彼は背中を向けたその時、私は何故か焦りを覚え、思わず口から言葉を出まかせていた。
「あっ…。おっ、表にあるバイク…、お兄さんのですかっ!?」
いきなり投げかけられたその質問に対し、彼はどこか怪訝そうな表情を浮かべながら再びこちらへと振り向いた。
「そ、そうですが、どうしたの?」
「いや、私…。昔からバイク乗ってみたくてですね。是非今度乗せて下さいませんかっ!?」
怪訝そうな表情がすぐ様、驚愕の面持ちへと変化したのを垣間見た瞬間『あ、いけない。またやってしまった…。』と、思い返して赤面した。
嘗てここまで大胆な言動を起こす事なんて神仏に誓ってなかった。そんな私が何故ここまで強引になってしまったのかは自分でもはっきりとは分からない。しかし、言わなければきっと後悔してしまうと直観したから、である。
ほぼ初めてに近い間柄の相手からこのような事を言われて驚かない人などいないであろう。
『男の人にこんな事を言ってしまうだなんて…。』
そこで初めて後悔という文字が脳裏に浮かび、その場を誤魔化すかのように少しだけ冷えた紅茶を一気に飲み干した。
彼はそれに気づいている風でもなく、ただ、視線を宙に切らしていた。まるで何かを見出すかのように…。
美しいピアノの音色が今だけは何故か淋しく、胸の高鳴る鼓動というか心のざわめきを際立たせていると感覚した矢先、激しい電子音がどこからともなく鳴り響き始めた。
音の主は白い液をつけて十分経過した事を知らせるタイマーであり、
それにより彼はようやく我に返った様子で、最後のお流しを施す為に私をシャンプー台へ促した。
席が後ろ向きへと倒れた後、ガーゼが顔へとかけられる。そして勢いよく流れ始めた温水と、それを注ぐ無言の指が全てを受け流してくれているように思えた。
先ほど口から出まかせたと表現をしたが、バイクに乗ってみたいという感情に嘘偽りはない。私と圧倒的な年齢差があり、彼は正真正銘な大人の男。きっと私の言葉を戯言と捉え、うまい具合に受け流してくれたのだ。
そう思い返しながらガーゼ越しで溜息交じりの深い息をゆっくりと漏らしていたその時、
「さっきの話の答えなんだけどね、バイク乗せてあげてもいいよ…。」
「えっ…?」
私の身体は再び硬直した。彼の神妙な声音はガーゼ越しでも確実に伝わってきている。
気がつくと髪がタオルに包まれていて「席を起こしまーす。」との声でガーゼが取り除かれると同時に、私の視界は広々とした窓の外に広がる景色と光が広がっていった。
再び髪をタオルで拭かせながら彼の声は続いた。
「バイク乗せてもいいんだけど、俺は社交辞令的な約束は嫌いなんだよ。その日時を決めてからじゃないと約束できない。それでいいならだけど…いい?」
そう言いながら私を覗き込む瞳は何故か物憂で、さっきまでとは打って変わった表情の彼に、私の心は握り潰されたのだった。
「はいっ!!一週間後の木曜日の夜なら親もいないので大丈夫だと思いますよっ!」
何だかんだと妄想し、自己完結した後の大どんでん返しであるこの状況がとても嬉しく、そして楽しく感じた私は笑顔で応えた。
その場では眼を細めて笑顔で頷き返すだけの彼だったのだが、きっちりとお仕上げまでして頂いた後の会計の際に、メールアドレスを交換し、人生初のデートを約束する指切りをして店を後にした。
その後、一週間後のバイクデートを経て、お互いの気持ちが徐々に近まっていく中、その数日後、再び逢えた時にお付き合いする事となった。
この出逢いを作ってくれたのは正しくラスクであり、日を改めてお礼をしたいとメールで先日彼と話し合ったばかりである。人生初の彼氏がまさか十三歳年上になるとは夢にも思わなかったのであるのだが…。
そして私は今京都にいて、この四月第三日曜日に訪れる彼を待ち侘びている。
私が京都へと進学したいと思ったのは、確かに地元を離れたいという気持ちが一番であるのだが、実はそれだけではなく、ある夢を叶える為…。
その夢とは世界を股に掛けた舞台女優になる事であった。
まずは演劇部に所属し、芝居の稽古や音響。脚本構成や演出など様々な勉強を懸命にこなし、これまで心の片隅に秘めていた全ての想いや、できなかった事を舞台上で表現したい。それによって華やかな人生を謳歌していく事を切望していた。
実はこの夢についてラスクは愚か、親にも話した事がなかったのだが、舞台の事をやけに詳しい彼の話に食い入り、思わず口を滑らせてしまった私に、彼は「心から応援するから何でも相談してほしい。」と言ってくれた。
右も左も分からない私にとってはとても心強く、何より励みになる。
あの美容室での出来事が三月七日であり、今は四月三日。おおよそ一カ月という時が流れ、今は入学式間近。私にとってここが人生のスタートラインと言っても過言ではなく、期待と不安が入り混じるこの感情が妙に心地よかった。
入学式と四月二五日の部活説明イベント。その前に彼が来る第三日曜日が楽しみで仕方がない。うん、そう…。多分…、否。必ず素敵な日が訪れるはず。
とりあえずベッドから滑り出ると、部屋の北側を位置する所にある大きな窓を開けた。
すると激しい風が私の髪をたなびかせ、朧気な風の行方に視線を促したが、そこには這いつくばる風景があるだけ。
私は思わず首を傾げたが答えは何も返ってこず、爽やかな春風が微かに木々を揺らし続けていた。
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