第7話 二 邂逅と戸惑い 

 目が覚めると遠くから深い鐘の音が聞こえていた。

 部屋に差し込む光も、この部屋へ薫り立つ空気も、この土地で出逢った方々の優しさも。

 十八年間過ごしたあの街とは大きな違いで、全てが美しく、何よりも心地よかった。


 私こと雨宮椿は、この春、大学進学の為に地元愛媛を離れ、京都北山葵の森という場所へ先日引越しをしてきたばかりである。


 何より初めての一人暮らしで、しかも全くもって知らない土地。


 これから住むに当たって、この場所の事をいち早く知らなければならないと思い、連日ひたすら一人、街をさまよい歩いた。すると、想いの他、次から次へと嬉しい出来事が度重なり、実は京都と言う土地が本来の私の居所ではないのかと感覚し始めていたのだった。


 そもそも京都という場所は、もっと都会であるという妄想を抱いていたのだが、それは勝手なイメージだったらしく、中心部を少し離れてしまうと、地元とそう変わらない風景が広がっている事に初めは何より驚いた。  


 でも冷静に考えてみるとここは古都。そんな場所に賑やかな雰囲気がどこまでも広がっていると思う方が間違いであり、むしろそんな有様なら世界中の外国人の方々が敢えてここ京都へと訪れるはずもない。


 そう思い返し、繰り返し散歩をしていた日々の中で、普通の田舎とは一味も二味も違う古き良き日本がここにある事を五感全てで感じ取る事ができた。それを写真に収めながら、ここよりそのまた向こう側へと足を進ませている内に段々と思い入れが深くなっていく。


 この土地へと来たのが三月二十二日で、今日は四月五日。そうこうしながらの二週間くらい過ごす日々の中で、郷愁の想いは不思議と生まれなかった。しかし一つだけ、この胸に気がかりな事を地元に残している。


 それは大切な存在の彼をあの街に残しここへと来てしまっているという事。彼の名は黒木校季。私の人生に置いて初めて彼氏となった存在である。

 これまでに他の男性から愛の告白はなかった訳ではない。多分多かったと言っても過言ではないくらいであった。


 しかし、そう至らなかった理由はというと…、私にはどうしても男性なる生物が不潔で、汚らしく思えて仕方がなかった。


 女子生徒達がいるにも拘らず、大声で下品極まる言動を施す男子生徒達の態度。

 それだけでは事足りず、嫌がる女子に対しての暴挙を毎日見ている内に、妙なイデオロギーのようなものが心の中に創り上げられていった小中学生。


 その時期を経て高校へと進学したある日、いつもの通り学校へと向かっている途中に小学生の時から苦楽を共に過ごしている田中唯ちゃん(通称、ラスク)から思わぬ提案が上がった。


「椿、病院の前にある美容室あるじゃない?」


 ラスクの口から幾度と話題に出ている美容室。今更知らない訳もなかった。


「うん、勿論知ってるけど…、何?」

「あそこのお兄さん、多分アンタと気が合うと思うんだ。試しに一回行ってみなっ!!」

「えっ?あそこって男の人一人でやってんでしょ…?」


 妙な悪意などない言葉であるのは分かっているが、私の心は正直ざわめいた。しかしラスクは何故か笑顔を浮かべながら私を見るだけであった。


「ラスク、私の事理解してる…」

「いいから騙されたと思って一回行ってみなって!!!」


 けん制するように覆い被さるラスクのその言葉。どうするべきかと即座に考えたのであったがそれに成す術もなく…。


「分かったわ。ラスクがそこまで言うなら、いつか行ってみるわね…。正直嫌だけど…。」


 最後は魂の叫びだった。

 しかし、それさえもまるで分かりきっているかのようにラスクは笑みを浮かべたままでこの時は終わった。

 そのやり取りは次第と記憶の片隅に追いやられていき、そこへ向かう機会は訪れず日々が滔々と流れていく。


 せっかくのラスクの提案でも、こればかりは素直に賛同する事はできない。昔から感じていた男性に対しての妙な感覚が私を捉えて離さなかった。


 と、そう思っていたのだが、時として人の感情とは可笑しなもので、どういう訳か『あの場所へと行かなければならない』と何故か突然直観し、おもむろに電話を手にしたのは確か高校二年生の十月の話。


 不安感に苛まれながらお店のドアを開けると、一人きりの男性に迎えられ、とりあえず注文したカットを順序良くして頂いた。男性と二人きりの空間であるにもかかわらず、何の違和感なくその場をやり過ごせたという事が何より驚きであった。


 会話も楽しく盛り上がる中、『バンドマンにモテそうな顔してるから気をつけなよ!』と、なんだかよく分からない言葉がすごく印象的であった。


 そして、つい最近の話。

楽しくもあり、悲しくもあった高校三年間をようやく終焉させた訳で、そうなってくると昔からコンプレックスである前髪の癖毛を制さなければならないと思った私は、何故か、というかやはりと申した方がいいのか、彼の店へと行きたくなってしまった。

 そして、あの日から押す事のなかった番号へと再び電話をかけた。すると…。


「はい、お電話ありがとうございますっ!美容室ベルベットルームでございますっ!!」


 彼の元気ハツラツな声に私の身体は一瞬固まってしまった。しかしそうなっている場合ではない。


「は、はい…。ま、前髪ストレートお願いしたいんですけど…?」


 少しどもってしまった声を全く気にしないよう、彼は元気な声を続かせた。


「ありがとうございますっ!!!えっと、それは本日でございますか?」

「は、はい…。そうです…。」


 『彼は私だと分かってるのかしら…?』と一瞬疑問に思ったが、多くのお客様を抱える彼は、多分気づいていないだろう。少し間が空き、彼の声が再び聞こえてきた。


「そうしましたらですね…。あ、前髪ストレートだとこれからできそうなので、いらして貰ってよろしいですか?」


 いきなりの展開に私の心はざわめいた。えっと…その…。うん…。


「あ、はい。分かりました…。」

「お名前頂戴してよろしいですか?」


 そういえば名前を告げていなかった事を思い出し、なんて常識無い行動を仕出かしてしまったのだと我ながら恥ずかしくなり、思わず赤面させながら名前を告げた。


「雨宮…椿です。」

「はい、畏まりましたっ!それではお気をつけてお越し下さいませっ!!」

「はいっ!有難うございましたっ!!」


 そう叫びながら私は慌てて電話を切ってしまった。

 やばい、大変な事になった…。


 まさか今日の今すぐに予約が取れるだなんて夢にも思っていなかった訳で、正しく驚愕。あてはまる言葉はこれしかない。

 しかし、予約を取ってしまったからにはあたふたしていても埒が明かない。私は急いで、というよりも焦りながら家の外へ出ると、自転車に飛び乗った。


 勢いのままペダルを立ちこぎし、あの日から訪れる事のなかった彼の店へと向かった。

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