第5話 一 あの日の僕、そしてこの空の下で…。

 その後、名刺に記載された会社で代表、岡野静香と合い、面接という堅苦しいものなどまるでなく、ただただ仕事内容を聞かされた後、契約書にサインをしてその日は終わったと思う。


 その魅惑のフリーライターという職業内容はというと、各種会社、観光地、フード店、演劇場、ライブハウス等。会社から指定された場所に向かい取材をし、感想を原稿用紙二枚分に包み隠さず書きつづるだけの、ある意味至って簡単なお仕事である。


 やり始めた当初は、多少困惑した出来事も当然ながらあったのだが、それはほんの初めだけで、仕事が少しずつ増えていく中、会社や現場に顔馴染みも次第に増えていき、これまでとは全くもって違う形の文学に対しての捉え方や、自分よりも、うんと年上の大人達との絡みの中、様々な事を学びながら日々を過ごしていった。


 その事は現仲間達同様、中高の友人にも告げる事はなかった。別に隠している訳でも、出し惜しみしている訳でもない。ただ単に、全くもって違う志が故、若干の背徳感を抱いているから言いだせないだけである。  


 もちろん学業も怠る事なくやっていた為、これまでのような付き合いができなくなっていったのだが、それをとがめるほど他の者も暇ではない。

 もし、何かしらの疑問が生じたとしても、新しいバイトを始めたからとか言って切り抜けられる自信はあった。それに嘘はないのだから。


 二束のワラジに忙殺された日々は、とんでもないスピードで過ぎ去っていき、気がつくと時は大阪二年目の冬に差しかかろうとしていた。


 この美容専門学校へ通う真髄(しんずい)とも言える、美容国家資格取得に対しての檄(げき)が先生達から飛び始めたのは確か夏の終わり。この時期になると、それは更に激化していて、緊迫したムードが生徒達の間に立ち込めている中、確実に僕だけが浮いていた。


 放課後、試験の為にあてがわれた補習を、全く受ける事ない僕に浴びせる冷ややかな視線を感じなかった訳ではない。しかし、取材にてこれから向かう現場で、何が僕を待ち受けているのだろうという気持ちが勝り、ある種気に止める余裕などなかったのだった。


 取材を終え、テレコを聞きながらその内容を文章へとまとめ、それを送信した後、怠る事なく、本学に勤しんでいた日々…。


 そして年が明け、遂に美容国家試験時期が差し迫る中でも相変わらずの僕の態度に対し「試験には確実落ちるだろう」と、ささやき嘲笑っていた者達を一蹴するように、僕は難なく美容免許を取得したのだった。


 卒業後の就職先も、実は夏くらいに的を絞っていて、個人的にコンタクトを取り、試験合格の暁には学校を通じて正式に採用するというところまでこじつけていたのだ。

 そして卒業式を経て、大阪市街にある某中型美容室へと晴れて就職したのであった。


 正社員として初めて就く業務の中、忙殺する日々がこれまでに培ってきた大切な何かを確実に奪っていく。しかし、それでも文章を書く事だけは止めず、相変わらず頂いている『viva大阪』からの依頼を、極端に少なくなった休日に何とか処理していた。


 春夏秋冬、嵐のような毎日。記事でこそ、このような有様であるのだから物語なんて書けるはずもなく、頭の中に浮かんできたプロットを走り書きするだけ。そして次から次へと押し付けられる仕事による残業と、たまる一方の疲れと悔しさ。そして、空回る情熱…。


 記事をまとめながら、「こんな駄文じゃ、いつかは仕事を与えてくれなくなるな…。」と思っていたが、いつまでも止む事なく届くメール依頼に疑問を覚えた僕は、会う機会があった時、思い切って岡野に聞いてみた。


『君の書く文章は繊細で、個人的に好きなんだよ。少なくてもいいから無理せず、ずっとウチで続けて欲しいんだ。頼めるかい?』


 僕は思わず涙して岡野と握手した。その言葉に何より救われたのだ。

 こうして『viva大阪』の記事を書き続け、本職を何とか全うしながら、仕事もようやく板についていたと思えるようになった美容師二年目、夏の終わりの某日。

 突発的に開かれたミーティング時、オーナーから突如、とんでもない言葉が飛び出した。


 同期達からあからさまな嫉妬の念が僕へと向けられる中、僕を何故か

ジュニアスタイリストへと昇格させるという話であった。


 難なく業務を遂行している僕を、オーナーが良く思っている意志があるのは周りから知らされていたものの、しかし、このタイミングで、まさかこの速さでジュニアスタイリストに上げるという選択はいかなるものか。それと、様々な思惑がある僕には、正直複雑だった。


 今でさえこれだけ忙しく、それ以上の業務を与えられたなら、確実にそれだけとなってしまい、物語を形にする時間は愚か、記事を書く事も儘(まま)ならなくなるだろう。


 そう思った僕は「少しだけ考えさせて下さい」と告げ、その場を誤魔化した。そして数日後、僕が出した結論は、思い切って一旦美容業から遠ざかる事にしたのだった。

 この美容という世界はただ一つの世界であり、これに固執していたのなら微々たる人間模様は見る事はできても、様々な人生経験を培う事は確実にない。これだけで普通に過ごすならいいのだが、僕はもっともっと貪欲に生きていきたい。文学に対する夢を更に掘り下げたい。

 かつて、佐々木氏から賜った言葉を思い出し、自分の夢に向かって、正直になりたいと思ったからである。


 こうして退社したものの、確実に明日はやってくる。

 金がなければ生活はできず、文章を書く事ができない訳で、食い繋ぐ為と、人生経験を増やすべく、とにかく様々な職種に手を出していった。


 時にはフォークリフトを操る日雇い労働者(1t以下のリフト)。時には遠くの国へ輸出する為に、買い取られてきた原チャリから必要パーツを拾い出し、それを走りそうな原チャリへと移植するというブラックジャック的バイク整備士(見様見真似)。また時には黒スーツを身にまとい、髪をポマードでオールバックにし、トレンチ片手にホールを行き交うキャバクラのボーイ(一番向いていたと思われる)。そして『viva大阪』の記事を手掛けるフリーライターの傍ら、年間累計十本の小説を書き、絶えず投稿しては撃沈するという一向に芽の出ない自称小説家と、その他諸々…。


 文章にすれば大層な仕事を数々こなしている訳なのだが、一言で表現すると定職の持たない単なるフリーターに過ぎない。それでも美容師をやっていた時より確実に充実していて、毎日が楽しくてしょうがなかった。


 無情にも時は流れていき、気がつけば大阪七年目の春。僕は齢二十五となった時、遂に痺れを切らした両親から白いタオルを投げつけられるような言葉が上がったのだった。


 僕の歳の事よろしく、両親周辺の結婚事情から繋がる同級生の出世の噂と、今の僕を皮肉るような過去の僕の話。それには何とか耐える事ができたとしても、次の言葉が僕を観念させる引き金となった。


 それは両親自身の口から漏らす身体の衰え。

 実のところ僕は一人っ子であり、いわゆる跡取り息子なのである。


 両親は共々会社員であるが故、特に護る財産などないと思うのだが、これを引き合いにされるとぐうの音もでず、それよりも、これまで好き勝手させて貰った手前上、言う通りにせざるを得なかった。


 地元に帰ると『viva大阪』の仕事はできなくなる。

 それは断腸の想いではあるのだが、大阪で培う事ができた『人生経験』を十二分に活かし、これからは地元にて物書きに専念し、頑張って夢の続きを見るのも乙ではないかと思い返し、僕は大阪を離れる決意を固めた。


 地元愛媛へと帰郷した後、まるで用意されていたかのように、親類が個人で営んでいる美容室へと難なく再就職でき、与えられるだけの美容業務と執筆の時間。そんな中でも様々な事がありながら過ごした七年間を経て、そして今に至る。


 それが、これまでの僕の経緯である。

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