第4話 一 あの日の僕、そしてこの空の下で…。
前回この会社へと訪れたのは確か二カ月ほど前だったと思う。
数えではそんなに月日は経っていないものの、この二カ月間は、僕にとって多大なるものを培う必要不可欠な期間であり、僕が未だ文学にかじり付くきっかけとなる確実な出来事が起こった日なのであった。
仰々(ぎょうぎょう)しいほどの規模を誇るビルディング。それを見上げている僕の側を数分足らずで何人が通り過ぎ、この社へとのみ込まれていったのだろうか。
元来、書き専門であるだけの僕は、どの出版社が何のジャンルに適しているという事など興味もなく(今であってもそう)、片っ端から売り込むしかできないという単細胞。行き当たりばったりでたどり着いたこの出版社の名をその時点で知らなかったという事が何より失礼な話である。
流れる人に紛れながら玄関をすり抜け、総合受付にはあの時、対応してくれた女性が、まるではりつかせたような笑顔で対応してくれた。
きっとあの時の事を覚えているのであろう。表情には出してはいないが「またあんたか…。」という心の声がこちらへと聞こえてきているのだが、それに心を取り乱すほど決意はやわいものではない。
もし僕を門前払いしようものなら、その場へと即座に土下座パフォーマンスを展開してやろうと思っていたのだが、女性は受話器を手に取り、取り次いだ者に何かを告げると、「黒木様、あちらのソファにてしばらくお待ちくださいませ。」と、窓際の方へと手のひらで合図を施しながら受話器を下ろした。
僕は一礼し、手渡す封書を握りしめ、指定されたソファへと腰掛けた。そして再び訪れた出版社のフロアを冷静に眺めながら何かを待っていると、
「黒木君、お待たせしました!!」
陽気な声が上がった先に視線を向けると、あの時と同じ担当者が額に汗を浮かべながら、いそいそとこちらへと向かってくる姿が見えた。
「お忙しい中、お時間裂いて頂き、誠に恐縮でございますっ!!」
僕はすぐ様立ち上がり、深々と頭を下げた。
「ええんやで。で、どないしたんや?新しいモノ書けたんかいな?」
「いや、新しい物ではないんですが、あれから僕なりに勉強致しまして、あの時見て頂いた物をもう一度練り直したのです。頑張って書きました…。」
その声に担当者は厳しい表情へと変え、腰掛けるように促す仕草を見せた。
「まあええわ…。何しか内容見ん事には始まらん。早速見せてもらおか。」
封書を手渡し、そして腰掛けた。目の前で僕の文章を凄い形相で眺め尽くす担当者。短編集の一話くらいの物語であるが故、すぐに読み終えるだろうが、監査されている時間の流れは、緊張合間って正しくスローリー。真剣に取り組んだ物であるからなおさらである。
最後の一枚を読み終えた担当者は、まるで差し返すようにテキストを机の上に放り投げ、こめかみを指できつく揉みながら深く長い息を吐いた。
僕はその反応にどういう言葉をかけていいのか分からず、放り投げられたテキストを見尽くすしかできない。周りのざわめきさえもノイズに聞こえてくるほど、心は正常ではなかった。
頑張った。頑張ったが、これまでなのかと思うと目頭が熱くなり、思わず泣き伏せてしまおうと思った瞬間…。
「黒木君、もったいないわ…。」
「えっ…?」
多分この時点で涙が溢れ出していたと思う。そんな表情もそのままに視線を目の前に向けると、担当者は煙草に火をつけ、僕へと視線を向けながらため息交じりの煙を吐いた。
「確かにこないだ持って来てもろた時よりめっさええ仕上がりになっとる。それは認めんねん。黒木君頑張ったんやなって俺も分かるねんけどな…。」
徐(おもむろ)に煙を吐き散らかせながら、担当者は視線を外へと向けていた。
「こないだも思た事やねんけどな、黒木君が描く表現はええんや。ええんやで?でもな、味が薄いねん。グワグワグワーってくる何かって分かるか?」
そんな擬態語で伝えられても分かる訳もなく、身振り手振りに訴えている担当者の姿を僕は呆然と見尽くしていた。
「まあ、伝わらんわな…。何しか人生経験をもっとつまな、ええ文章は書けんねや。そんなもんやで…?」
僕は思わず沈黙してしまった。その物言いに反論する余地を見いだせなかったからだ。
中高の時、そして今。申し分ない程度に勉強してきていた訳であったが、今回だけは自分の文芸魂といえばおこがましいのではあるが、我ながら一矢報いる気持ちで取り組んだ。
しかし、僕の文章にはまだ何かが足りないらしく、それが人生経験不足だと言われてしまうと、今の僕にはどうする事もできない。この言葉の意味は多分…。
頑張った勢いで何とかなるという気持ちが心のどこかであった事は否めない。しかし、それが思い上がりであったという事を今知らしめられ、僕の心はどしゃ降りの雨に打たれたようにずぶ濡れとなっていた。
きっとしばらくは文章を書く気力も起きないだろう。某漫画の主人公みたく僕は燃え尽きたのだ。そう、真っ白にな…。
「そこでやなぁ、俺から一つ提案があるんやけどなぁ。」
偉そうに踏ん反り座っている目の前のおっさんから何やら言葉が聞こえてきたのだが、夢破れて山河ありの僕にはそれを冷静に聞く余力など残されていない。むしろ、今後どう動いていいのか分からなくなるような発言をした後に、どのような提案があるというのか。表情を暗澹(あんたん)とさせ、再び目の前に視線を向けた。
「黒木君、フリーライターって知っとるか?」
意味不明な笑顔のおっさんに一瞬躊躇(ちゅうちょ)してしまったのだが、それよりもその投げかけられた問いの意味を知る方が先だと思った。
「ええ、まあ。聞いた事だけはありますが…。」
「いやな、黒木君は表現方法豊かに文章書くからな、フリーの記事書くのに適しとるんやないかと俺は思っとったんやわ。そこでやっ!!」
いきなり机をバンッと叩くおっさ、否。担当者様。
「ちょっと前、丁度ええフリーライターおらんかと聞いてきた会社があってやな、実は黒木君紹介したらええんやないかと丁度思っとったんやわ。」
「ふぁっ!?」
いきなりのその提案に、僕の頭脳回路は徐に切断されていった。
聞いた事があると申したものの、『フリーライター』という言葉は、これまで読んだ小説の中で見た事があっただけでこの世に実在している職業であるという認識はなかった。しかも大体はミステリー作品の中で初めに殺されて物語が展開するという、田舎者の僕としてみれば謎多き魅惑の職業の一つである。
そもそもこの職業に明確な情報など何一つなく、いきなりそのような提案を施されてもどう反応していいのか分からない僕は、その場でただ狼狽えながら思考錯誤するしかできない。
「黒木君、こんなチャンスなんて滅多とないで?ここは快く受けといたほうが無難や思うけどな。」
相変わらず口から煙を吐かせながらのその言葉。
「えっと…、た…、担当者さん。一つだけお聞きしたい事があるのですが…。」
「何や?」
「そのフリーライターは一体何をする業務なのでありましょうか…?」
これから先、どうするべきなのか、どうなっていくのかさえ皆無である僕は、そう問いかけるのがやっとであった。
フロア内には所狭しに飛び交う賑やかな声と、ごった返す人の群れ。そして今置かれている状況が僕を困惑へと追いやっていく。何が何だか訳が分からなくなってきた僕は、激しい動悸を抑える事ができずその場へと身を挺(てい)しようとしたその時、
「あ、黒木君に俺の名前まだ教えてなかったんやな。すまんすまん。」
放り投げられた原稿の上に、担当者は胸元から出した何かを置いた。小さな長方形の紙切れ。それは正しく名刺であった。
『門山文庫 第3課長 佐々木忠信』
そう示された名刺を手に取り、眺めていると、
「それを手に取るっちゅう事は、ある意味クロっちゅうこっちゃで。まあ、さっき俺が言うたけど、経験つまな、ええ文章は書けん。とりあえず、そこの社へはええ様に言うとくから、その名刺持って、そこへ向かったらええ。黒木君、頑張りや…。」
佐々木はそうとだけ言い、そそくさとその場を離れていった。
僕は呆気に取られたように佐々木の背姿を眺め尽くしていると、何か重大な事を聞いていないような気がして、思わず首を捻らせながら考えた。
僕の事を抜擢して頂くのは嬉しい限りなのだが、そう…。これから足を向かわせる肝心な先方の情報を全く聞かされていない事に気がついたのだった。急いで佐々木を呼び止めようとしたその時、ふとテキストの上に置かれているもう一枚の名刺が視線の片隅に映り、僕はそれを手に取った。
『viva大阪、南堀江 代表、岡野静香』
普通に考えると、今から向かう先の情報である事に間違いないだろう。
住所、電話番号はもちろんの事、裏面には会社近辺の地図まで丁寧に記載されていて、これだと迷わずこの会社へとたどり着く事ができる。
佐々木さんが言ったように、これは一つのきっかけに過ぎず、ここから先をどうするかは自分次第なのである。この青天の霹靂を与えてくれた出来事に感謝し、既に誰もいなくなった空間へと一つだけ頭を下げ、僕はその場から立ち去った。
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